『吾妻鏡』によると、源頼朝は、1180年(治承4年)の挙兵の際、三歳のときに京都清水寺から下された二寸銀の正(聖)観音像を髷の中に納めていました。
この観音像は、頼朝の将来を祈るため清水寺に参籠した乳母が、十四日を過ぎたときに夢のお告げがあって手に入れたものだったそうです。
そのため、心から信じて敬っていたそうです。
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~観音像を洞窟に・・・~
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた頼朝は、髷に納めてあった観音像を隠れていた洞窟に置きます。
土肥実平がその理由を尋ねると・・・
「平氏に首を討たれるときに、この観音像を見ると、源氏の将軍らくしくないと非難される」と答えたのだそうです。
(湯河原町)
しとどの窟は、頼朝が隠れ潜んだといわれる洞窟で、清水寺の聖観音像を置いたのもこの洞窟と考えられています。
しとどの窟を出た頼朝は、一時箱根権現に身を寄せた後、土肥郷へと下って真鶴から安房へと渡り、軍勢を整えて、10月6日(7日とも)、鎌倉入りを果たしました。
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~戻ってきた観音像~
洞窟に置いきた清水寺の聖観音像はどうなったか・・・
伊豆山権現の專光坊良暹の弟子僧が見つけ出して、12月25日、鎌倉の頼朝のもとへ届けられています。
(熱海)
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~持仏堂の本尊に。~
1189年(文治5年)7月18日、頼朝は伊豆山権現の專光坊良暹を呼び出し、御所の裏山に奥州征伐の祈願所を設けるよう命じています。
祈願所は、後に持仏堂となりますが、本尊は頼朝の守り本尊である「清水寺の二寸銀の正(聖)観音像」だったそうです。
清水寺の観音像を本尊とする頼朝の持仏堂は、現在、頼朝の墓塔が建てられている場所にありました。
1199年(建久10年)正月13日に亡くなった頼朝は、持仏堂に葬られ、以後、持仏堂は法華堂と呼ばれました。
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鎌倉との繋がりを求めて。