『吾妻鏡』によれば・・・
1251年(建長3年)12月26日、了行・矢作常氏・長久連らが謀叛を企てたとして、佐々木氏信・武藤景頼に捕らえられ、諏訪盛重が尋問を行っています。
※了行は、宝治合戦で滅んだ千葉氏庶流の僧。
※矢作常氏は千葉氏の残党。
※長久連は三浦氏の残党。
(法華堂跡)
この謀叛計画には、京都の九条頼経(将軍頼嗣の父)とその父道家が関与していたものとされています。
※頼経は四代将軍。宮騒動で京都に送還されていました。五代将軍には頼経の子頼嗣がなっています。
(参考:鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経)
そのため、五代執権北条時頼は、1252年(建長4年)2月20日、五代将軍頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を迎えることに決定します。
3月には頼嗣が京都に送還され、4月には宗尊親王が鎌倉に入りました。
※道家は1252年(建長4年)2月21日死去。
※頼経は1256年(康元元年)8月11日死去。
※頼嗣は1256年(康元元年)9月25日死去。
その後も鎌倉では三浦氏の残党による謀叛が計画されているようです。
『吾妻鏡』によれば、1261年(弘長元年)5月1日、「大倉稲荷に会合している者を捕らえようとしたが、悉く逃げてしまった」という記事があります。
その翌月には、「三浦義村の子良賢が謀叛によって捕らえられた」という記事もあるようです。
京都の東福寺は九条道家が創建した九条家の菩提寺。
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