当時は北条政子の居所として使用されていました。
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1180年(治承4年)8月、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、10月に鎌倉に入ります。
そして、大倉の地に新亭を造営することとしました。
新亭造営は、大庭景義の奉行によって進められ、12月12日、頼朝は新御所に移っています。
その後、大倉御所は、1191年(建久2年)3月4日の大火で焼失。
1213年(建保元年)5月2日の和田合戦で焼失しますが、その都度再建されてきました。
(※建久2年の大火では、鶴岡八幡宮も焼失しています(参考:御鎮座記念祭)。)
しかし、1219年(承久元年)12月24日に焼失した以後は再建されることはありませんでした。
この火事によって、政子は、北条義時亭内(参考:北条執権館)の仮御所に移り、三寅(のちの四代将軍藤原頼経)と同宿します。
(※晩年の政子は、勝長寿院に屋敷を建てて住んでいます。)
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その後の御所は・・・
1225年(嘉禄元年)7月11日、政子が亡くなると、その百ヵ日法要後の12月20日、頼経は仮御所から宇津宮辻子の御所へ移りました。
さらに、頼経は、1236年(嘉禎2年)8月4日に若宮大路の御所へ移っています。