母は辻殿(賀茂重長の娘:源為朝の孫)。
幼名は善哉(ぜんざい)。
三浦義村を乳母夫として成長します。
1203年(建仁3年)9月、比企氏の乱が起こります。
この事件で父頼家は、将軍職を廃され、伊豆修禅寺に幽閉された後、翌年、北条氏によって暗殺されます。
(参考:源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~)
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~その後の善哉は・・・~
『吾妻鏡』によれば・・・
1206年(建永元年)6月16日、北条政子邸では、善哉の「着袴の儀」が行われ、三代将軍源実朝(善哉の叔父)も参列しています。
同年10月20日には、善哉は、政子の命令で実朝の猶子となり、はじめて御所に入ります。
このとき、乳母夫の三浦義村は贈り物を献上しているようです。
1211年(建暦元年)9月15日、鶴岡八幡宮別当の定暁(尊暁)の弟子となります。法名は「公暁」。
翌日には定暁に伴われ、受戒のため上洛しています。
修行のために入った園城寺では、公胤僧正の弟子となり、「悪別当」と呼ばれていたようです。
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~鶴岡八幡宮の別当に・・・~
1217年(建保5年)6月20日、定暁が入寂したため、政子の命令で鎌倉に戻った公暁は、政子から鶴岡八幡宮の別当に補任されます。
この年の10月11日、公暁は別当となってはじめて神拝し、その晩より宿願によって、上宮で一千日間の参籠をはじめました。
『吾妻鏡』1218年(建保6年)12月5日条には、
「公暁は参籠したまま上宮を退出せず、いくつかの祈請をたてて髪も剃らないので、皆がおかしいと怪しんだ」
と記されています。
この間、実朝は昇進を重ね、12月2日には右大臣に任ぜられています(参考:昇進を重ねた源実朝)。
そして、1219年(建保7年)の正月を迎えます。
(2009年秋)
「源実朝を暗殺した公暁が隠れていた」という伝説が残されています。
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~右大臣拝賀式の日~
1219年(建保7年)は、源実朝の右大臣拝賀式が行われた年です。
正月27日、式に出席した実朝は公暁によって暗殺されました(参考:源実朝の暗殺)。
さて・・・大事件が起こる前の『吾妻鏡』には何が記されているでしょうか・・・
必ず奇妙な出来事や不吉な出来事があったはずです。
(※すでに、前年7月、北条義時には戌神将のお告げがあったようですし、12月には公暁の異常な行動が記されています。)。
7日、御所の近辺で火事があり、大江広元邸外40軒が焼亡。
15日、大倉辺りで火事があり、北条時房室の家外10軒が焼亡。
23日、夕刻から大雪となり、晩には30㎝以上の積雪。
25日、右馬権頭頼茂が鶴岡八幡宮に参籠。
頼茂は、前夜、拝殿で法を施しているとき、一瞬眠りの中に落ちて夢をみます。
「目の前に鳩が一羽いました。
そのそばには子どもがいましたが、その子が杖を持って鳩を打ち殺し、ついで頼茂の狩衣の袖を打った」
という夢だったそうです。
そして、夜が明けてみると社殿の前に死んだ鳩がありました。
占ったところ、不快ということになり参籠したということです。
こうして実朝の右大臣拝賀式の日(正月27日)を迎えます。
この日は、晴れていたそうですが、夜になって7、80㎝の雪が降ったということです。
出発前の実朝の様子を『吾妻鏡』は次のように記しています。
大江広元は実朝に、
「私は成人してから涙を浮かべたことがありませんでした。
しかし今、涙を止めることができません。
これはただ事ではありませんので、何か起こるかもしれません。
東大寺供養の際の頼朝様の例にならって、
束帯の下に腹巻を着けていかれるとよいでしょう」
と言いました。
※「腹巻」とは鎧のこと。
しかし、源仲章が、
「大臣大将にまで昇った人で、未だそのような式に出た人はありません」
と答えたので止めたといいます。
実朝の髪を梳かしていた宮内公氏は、一筋の髪の毛を記念にもらったそうです。
そして、庭の梅の木を見た実朝は、
「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」
(主人のいない家になってしまうが、花を咲かせることを忘れるな)
と詠んだのだそうです(参考:歌人として名を残した源実朝)。
実朝は午後6時頃、雪の中を鶴岡八幡宮へと出発します。
南門を出るときには霊鳩が鳴きさえずっていたといいます(源氏にとって鳩は特別な鳥です。)。
車から降りるときには、刀を折ってしまったそうです。
やはり、様々な出来事が起こっていました。
鶴岡八幡宮の白鳩
源氏の白旗に書かれた「南無八幡大菩薩」の文字。
「八」の字は、鳩で描かれていました。
鶴岡八幡宮の扁額も「八」の字は鳩です。
(参考:鳩サブレー~鎌倉の名産品~)
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~源実朝と公暁の死・・・源氏の滅亡~
参拝を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然公暁が襲いかかり、実朝は殺害されました(参考:源実朝の暗殺)。
「父の敵を討った」という名乗りをあげたのを聞いた者がいるともいいます。
石段下にいた御家人がすぐに駆けつけますが、すでに公暁の姿はありませんでした。
実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったといいます。
そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、
「今、将軍の席が空いた。
次は自分が将軍となる順番だから、
早く方策を考えよ」
と指示しています。
これに対し、義村は、「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時に連絡をとっています。
義時から公暁を殺すよう命ぜられた義村は、長尾定景を差し向けます。
山越えをして義村邸に向かっていた公暁は、定景によって討ち取られ、首は義時邸に運ばれたということです。
※義時は御剣役として実朝に供奉していましたが楼門を入るときに気分を悪くし、小町の屋敷に帰っていました(参考:大倉薬師堂~北条義時と戌神将の伝説~)。
公暁がどこに葬られたのかは不明です。
また、公暁が持っていた実朝の首の行方も定かではありません。
源実朝の亡骸は勝長寿院に葬られました。
首がないので代わりに髪の毛が棺に納められたといいます。
源実朝と公暁が死んだことで、源氏の世は終わりを告げます。
(秦野市)
一説によると、実朝の首は波多野の地に葬られたのだといいます。