別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月9日土曜日

歌人として名を残した三代将軍源実朝

源頼朝が亡くなると、子の頼家が跡を継ぎます。

しかし、頼家は、1200年(正治2年)、頼りにしていた乳母夫の梶原景時を失い(梶原景時の変)、1203年(建仁3年)には同じく乳母夫の比企能員を失い、自らも修禅寺に流されてしまいます(比企の乱)。

頼家の跡を継いだのは弟の千幡(実朝)でした。

12歳で将軍となった千幡は、すぐに元服し「実朝」と名乗ります。

翌年(1204年(元久元年))には、坊門信清の息女と結婚しました。

初めは足利義兼の娘との結婚話が進められていたようですが、実朝の強い希望により公卿の娘が選ばれたそうです。


源実朝の歌碑

「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

実朝は将軍にはなりましたが、政治の実権は母北条政子や叔父北条義時に握られていました。

しかし、実朝は歌人としての才能を発揮し、その名を世に残しています。

鶴岡八幡宮境内にある鎌倉国宝館前には実朝の歌碑が建てられています。

この歌碑は関東大震災で倒壊した二の鳥居の柱が使用されているとのことです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

実朝は父頼朝を尊敬しその言行を学ぶなど多くの御家人からは慕われていました。

十二所にあったという大慈寺は、実朝が父頼朝のへの感謝の意味で創建した寺だと伝えられています。

その一方で実朝には、貴族趣味的な側面がありました。

その貴族趣味は、政治の実権は自分にはなく、傀儡将軍であることを自覚していくにつれて大きくなっていったものと思われます。

実朝は、14歳から和歌をはじめ、1205年(元久2年)、京より『新古今和歌集』を取り寄せます。

1208年(承元2年)、17歳の実朝は疱瘡を患い「あばた顔」になってしまいます。

その顔を見られたくなかった実朝は20歳になるまでの3年間、一切外出をせず鶴岡八幡宮の参拝も止めてしまったといいます。

しかし、その間、和歌の道の精進を重ね、1209年(承元3年)、自らが作った和歌10首を『新古今和歌集』の撰者の一人だった藤原定家に送って批評を願っています。

1211年(建暦元年)には、水難に嘆く民衆を心配し、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」という歌を詠んでいます。

1211年(建暦元年)に鎌倉を訪れた鴨長明は、度々実朝を訪問したといいます。


(鎌倉を訪れた長明は、頼朝法華堂にも赴き「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払う山風」と詠んでいます。)


そして、実朝は家集『金槐和歌集』を編纂します。

1213年(建保元年)頃のことだったと伝えられています。

「金」は「鎌倉」を表し、「槐」は「大臣」を意味しているということから、「鎌倉の右大臣の家集」と呼ばれています。


献詠披講式

毎年3月、鶴岡八幡宮舞殿で行われています。

歌道にも熱心だった源頼朝と、『金槐和歌集』を編纂した源実朝にちなんで、平成17年より始められました


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実朝の歌は、強い実感を率直に表した「万葉調」のものが多く、藤原定家より贈られた『万葉集』がその基礎となっているようです。


源実朝の歌碑

「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも」

鎌倉海浜公園(坂ノ下)に建てられている歌碑です。

歌は『小倉百人一首』に選ばれたもの。


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~伝説!歌ノ橋~

荏柄天神社には、和歌に秀でた将軍源実朝の伝説が残されています。

1213年(建保元年)、泉親衡の謀反が発覚(参考:和田合戦)。

その時に謀反の疑いをかけられた者に渋川兼守という人物がいます。

兼守は謀反の罪を晴らそうと荏柄天神社に和歌十首を奉納します。

それを読んだ実朝は感動し罪を許したと伝えられています。

兼守がその時のお礼にと架けた橋が、今も金沢街道に架けられている「歌ノ橋」なのだそうです。


~有力御家人の滅亡・・・~

源実朝の時代にも、頼朝以来の有力御家人が滅ぼされました。

1205年(元久2年)、畠山重忠北条時政の策謀によって二俣川で最期を遂げました(畠山重忠の乱)。

子の重保も由比ヶ浜で三浦義村によって討たれています(参考:畠山重保の墓)。

1213年(建保元年)には、北条義時に挑発された侍所別当の和田義盛が反乱を起こして滅亡しています。

これによって、幕府の実権を握っていた北条義時が政所別当とともに侍所別当をも兼ね、幕府において動かぬ座を手にし、北条執権体勢の基礎が出来上がりました。

一方の将軍実朝は官位昇進を望み、1216年(建保4年)には、突然の渡宋計画を発表します。

皆の反対を押し切って陳和卿に命じて船を建造させますが、出来上がった船は海に浮かぶことが出来きませんでした。


~実朝の最期~

1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝は、甥で養子としていた公暁(兄頼家の子)によって暗殺されてしまいます(参考:源実朝の暗殺)。

実朝が暗殺されたのは、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式後のことでした。

晩年、次々に官位昇進を望んだ実朝は、前年、右大臣に任じられていました。

拝賀式に出掛ける際に詠んだ歌が「出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」というものだったと伝えられています。

実朝、「二度と戻れないことを知っていたのではないか?」ということで知られている歌です。


ぼんぼり祭

立秋の前日から3日間にわたって行われる祭です。

源実朝の誕生日に当たる最終日(8月9日)には、実朝の遺徳を偲ぶ実朝祭が執り行われます。

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