別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年12月2日金曜日

大倉薬師堂~北条義時と戌神将の伝説~

覚園寺


二代執権北条義時は、戌神将の夢のお告げによって、大倉郷の南の山の麓に御堂を建立します。

そして、1218年(建保6年)12月2日、落成の供養が行われました。

この御堂(大倉薬師堂)が覚園寺の前身となります。




義時は、日頃より薬師如来を信仰し、十二神将を崇めていたといいます。


『吾妻鏡』によれば・・・

1218年(建保6年)7月8日、将軍源実朝鶴岡八幡宮参拝に従っていた義時は、晩になって屋敷に戻ります。

すると・・・

休息していた義時の夢の中に、薬師如来につき従う十二神将のうちの戌神将が現れます。

そして・・・

「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日には供奉しないように」

と告げたのだといいます。

(※翌年正月27日、源実朝の右大臣拝賀の式が行われます。)


夢から覚めた義時は、このお告げをどのように考えてよいか判断しかねたようですが・・・

翌日、大倉郷の南の山際に御堂を建立して、薬師如来像を安置するように命じます。


これに対し、周囲の者は・・・

「今年は将軍源実朝卿のご参詣によって、京からも多数の客人が集まりました。

その間、御家人や土地の者は、多くの財産を費やしています。

その嘆き悲しみがおさまらないうちに、大きな御堂を建立することは、

民を苦しめることになります」

と諫めます。


しかし、義時は、

「これは個人の身の安全を祈願するものであるので、百姓に負担させるわけにはいかない」

といって造営を開始したといいます。


覚園寺薬師如来像


こうして完成した大倉薬師堂は、1218年(建保6年)12月2日に落成式が行われます。

導師は、退耕行勇

本尊の薬師如来は、運慶によって彫られたものだったと伝えられています。


同日、源実朝が右大臣に任ぜられています。

📎昇進を重ねた源実朝



そして新年を迎えます。


1月27日には鶴岡八幡宮源実朝の右大臣拝賀式が行われました。

しかし、剣を持って従っていた義時は、鶴岡八幡宮の楼門に入るときに気分が悪くなり、役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰ります。

その後、実朝は甥の公暁によって暗殺されました。

義時の代役となった仲章も一緒に斬殺されています。

(参考:源実朝の暗殺


義時の気分が悪くなった原因は、白い犬が楼門の傍らに見えたからだといいます。


鶴岡八幡宮の大銀杏
公暁が隠れていたとう伝説の銀杏
(2009年)


2月8日、義時は大倉薬師堂に詣でます。

そのとき、実朝が暗殺された日に、十二神将のうちの戌神将が堂内にいなかったことを知らされます。


戌神将

ということで・・・

『吾妻鏡』は、戌神将が白い犬に姿を変えて楼門に現れ、義時を救ったと伝えています。






源実朝の暗殺

源実朝が暗殺された日

北条義時と戌神将の伝説



鎌倉手帳



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