別冊『鎌倉手帳』




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2011年7月1日金曜日

源頼朝と上総介広常


富士川の戦いで平家を破った源頼朝は、直ちに上洛しようとしますが、千葉常胤上総広常三浦義澄らに「関東の平定が先である」と進言されて諦めたのだといわれています。

もしかすると、頼朝は、この頃にはまだ、鎌倉に武家政権都市を創ることを考えていなかったのかもしれません。


上総介塔
金沢区朝比奈町の県道沿いにある五輪塔です。
上総広常の供養塔ともいわれています。
https://www.yoritomo-japan.com/page042asaina.htm


上総広常は、頼朝の父源義朝の郎党でした。

平治の乱義朝が敗れると平家に従っていましたが、石橋山の合戦で敗れた頼朝が安房で再挙すると、2万騎を率いて参陣します。


のちに上洛した頼朝は、後白河法皇に・・・、

「上総介広常は東国に勢いのある武士で、東国を打ち従えることができたのも広常を味方につけたため」と話したといいます。

しかし、頼朝は、広常が謀叛を企てたとして、梶原景時に命じて暗殺させました(1183年(寿永2年)12月22日)。

梶原太刀洗水
上総広常を討った梶原景時は、
この水で刀の血を洗い流したと伝えられています。
https://www.yoritomo-japan.com/page042tatiarai.htm


これも頼朝後白河法皇に話したという内容ですが・・・

広常は、頼朝が京都の朝廷に関心をもち、気を遣うことに不満を持っていて、

「なんで朝廷のことをあれこれ心配するのか。われわれがこうして板東で活動しているのを、いったい誰が命令なんぞできるものか」

というのが常であったといいます。

広常は、「関東の自立を考えていたから殺害した」というのが頼朝の主張のようです。

(参考:暗殺された上総介広常


ただ・・・

板東武士が求めていたのは、所領の安堵と、公正な裁判です。そして、その指導者を求めていました。

彼らが選んだのが頼朝でした。決して貴族の侍大将を求めていたのではありません。

富士川の戦いで勝利するとすぐに上洛をしようとする頼朝と、それを反対した広常とでは、そもそもの思いが全く違っていたのかもしれません。



歴史めぐり源頼朝







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