別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年1月31日月曜日

赤橋~鶴岡八幡宮の太鼓橋~

鶴岡八幡宮入口の源平池に架けられた太鼓橋(反橋)は、赤橋(あかはし・あかばし)と呼ばれていました。



1182年(寿永元年)、源頼朝は妻政子の安産祈願のために若宮大路を整備します。

それと同じくして源平池の造営も行われました。

その時、源平池には橋が架けられていますが、それが「赤橋」であろうと考えられています。




現在の太鼓橋は、昭和2年に鉄筋コンクリートと石で造られた橋ですが、『新編相模国風土記稿』によれば、昔は朱塗りの板橋だったといいます。

そして、『新編鎌倉志』には、長さ五間幅三間だったと記されています。


鶴岡文庫にある模型です。

1591年(天正19年)、豊臣秀吉が作らせた「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」による模型ということです。

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~源平池~




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1213年(建保元年)、和田義盛が起こした反乱(和田合戦)では、
「和田方の土屋義清が「若宮赤橋之砌」で流れ矢に当たって戦死した」
という記録が残されています。

~赤橋流北条氏~

北条氏庶流の北条義宗(六代執権北条長時の子)は、赤橋付近に屋敷を構えたため「赤橋駿河守」と呼ばれました。

以後、この系統は「赤橋流北条氏」と呼ばれます。

義宗は、1272年(文永9年)、八代執権北条時宗の兄時輔を討った者として知られています(二月騒動)。

義宗の子久時は、浄光明寺の本尊阿弥陀三尊像の発願者です。

そして、孫の守時は、北条高時の執権辞任によって起こった嘉暦騒動後に執権に就任しました。

守時は、鎌倉幕府最後の執権です(鎌倉幕府の滅亡)。



太鼓橋
鶴岡八幡宮