別冊『鎌倉手帳』




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2010年11月1日月曜日

鶴岡八幡宮の造営

鎌倉の整備のはじめとして源頼朝が行ったのは、鶴岡八幡宮の造営でした。


鶴岡八幡宮


1180年(治承4年)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、

祖先源頼義が由比郷鶴岡に京都石清水八幡宮の祭神を勧請して建てた鶴岡若宮(元八幡:材木座)を、小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えます。

※若宮とは、新しく勧請した神社のことです。

以後、鎌倉の街は、鶴岡八幡宮を中心として発展していくことになります。


元八幡(材木座)
https://www.yoritomo-japan.com/page135motohatiman.htm


1181年(養和元年)には、本格的な社殿も造営され、翌年には、参道若宮大路と神池(源平池)が造営されます。


=若宮大路=


若宮大路は、1182年(寿永元年)、頼朝の妻北条政子の安産祈願のために造営されたといわれています(この年、嫡男頼家が誕生しています。)。

若宮大路と一緒に造営されたと考えられる「段葛」は、現在も三の鳥居から二の鳥居の間に残されています。

「段葛」は、造営当初は一の鳥居まで続いていたといわれていますが、江戸時代には下馬(現在の下馬四ツ角)までとなり、明治22年の横須賀線開通に伴って二の鳥居までとなりました。


段 葛
https://www.yoritomo-japan.com/dankazura.htm


江戸時代、若宮大路には、四代将軍徳川家綱によって、三つの鳥居(石造)が寄進されましたが、関東大震災によって倒壊してしまいます。

一の鳥居だけがもとのとおりに再建されましたが、二の鳥居と三の鳥居はコンクリート造として建て替えられました。

(二の鳥居の石柱は、鎌倉国宝館前の源実朝の歌碑として使用されています。)


三の鳥居(七夕祭)

二の鳥居(神幸祭)

一の鳥居
https://www.yoritomo-japan.com/page041ootorii.htm

源実朝の歌碑(鎌倉国宝館前)


=源平池=


若宮大路とともに造営されたのが源平池です。三の鳥居をくぐると太鼓橋が架けられていますが、この橋もこのときに架けられたといわれています。

源平池は、弦巻田という斎田を池にしたものだと伝えられています。

太鼓橋
https://www.yoritomo-japan.com/page041taikobasi.htm

昔は、「源氏池」には源氏の白旗にちなんだ「白蓮」が、「平家池」には平家の赤旗にちなんだ「紅蓮」がそれぞれ咲いていたようですが、現在は紅白乱れ咲きとなっています。

また、源氏池には三つの島が、平家池には四つの島が設けられていますが、これは源氏の発展を願う「産」→「三」と、平家の滅亡を願う「死」→「四」をかけたものであるといわれています。

当初は、両方の池に四つずつの池があったそうですが、北条政子の命令によって、源氏池の島を一つ壊したとも伝えられています。

『吾妻鏡』には、鶴岡八幡宮寺の仮の別当を務めていた専光坊良暹(りょうせん:伊豆山権現の別当)、大庭景義らが造営の奉行を務めたと書かれています。





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