『吾妻鏡』によると・・・
~源頼朝が3ヵ国の知行国主となる~
1184年(元暦元年)6月20日、朝廷からの辞令が鎌倉に到着します。
源頼朝は、武蔵国・駿河国・三河国の知行国主となり、武蔵守には源(大内)義信、駿河守には源(伏見)広綱、三河守には源範頼が任命されています。
頼朝は、この人事について、予め高階泰経に書状を送って、この3ヵ国の知行国主となることを要請していました。
同時に、頼朝を助けてくれた池禅尼の子平頼盛とその子の解官の解除も要請していました。
その結果、頼盛は権大納言、その子光盛は侍従に、保業は河内守に任じられています。
(参考:平清盛と源頼朝)
また、この年、平頼盛とともに頼朝を訪れていた一条能保が讃岐守に任じられています。能保は頼朝の同母妹の坊門姫を妻としていました。
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~源義経、国司になることは許されず~
しかし、ここに源義経の名がありません。
木曽義仲の追討・一ノ谷の戦いで大活躍した義経でしたが・・・
頼朝の推薦からは除かれてしまいました。
『吾妻鏡』6月20日条には、「義経は官位の推挙を望んでいたが、頼朝はあえてそれを許さなかった」と記されています。
また、8月17日条には、「内々に疑義を申し出た者があった」ことが記されています。
しかし、その理由は定かではないようです。
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~義経、平家追討からも外される~
7月3日、頼朝は平家追討のため、義経を西海に派遣することを後白河法皇に申し出ています。
頼朝も、義経の武の能力は認めていたようです。
しかし、義経は平家追討軍から外されることになります。
8月6日、義経が頼朝の許可なく「左衛門尉」に任ぜられたことで、義経を平家追討の将軍とすることを見合わせることとなったのです。
義経は鎌倉に使者を遣わし、
「自分が望んで受けたわけではなく、度々の勲功に対して朝恩として与えられたものであるので、辞退することはできなかった」
と弁明しています。
しかし、これに頼朝は機嫌を損ね、「自ら希望したのではないか」という疑いを持ったといいます。
結局義経は、翌年2月の屋島の戦いまで京都に留まることになります。
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~義経が平家追討に参加できなかった理由(他説)~
ただ、一説には、義経が平家追討に参加できなかったのは、三日平氏の乱が起こり、その鎮圧にあたっていたからだという見解もあります。
三日平氏の乱というのは、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党の反乱です。
『吾妻鏡』によると・・・、
8月3日、頼朝は義経に、「伊賀国での武装蜂起は平信兼の子息によるものであるので、捜索し殺害せよ」と命じています。
そして、8月26日には、「去る10日に、平信兼の子兼衡・信衡・兼時を呼び寄せ、宿所内で殺害した」という報告を受けているようです。
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