別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月4日月曜日

晩年の北条政子~子たちへの思い~

尼将軍と呼ばれた北条政子の晩年は、観音さまの描くことを日課としていたといいます。


寿福寺

寿福寺は、1200年(正治2年)に政子が創建した寺と伝えられています。

政子が描いた観音像が伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

政子は、長女大姫、次女三幡、長男頼家、次男実朝という全ての子を先に失いました。


大姫は・・・

幼いときに、なついていた木曽義高が父頼朝に殺されたショックから病気となり、生涯治ることがありませんでした(参考:岩船地蔵堂)。

1197年(建久8年)7月14日に亡くなっています。

20歳前後ではなかったかと言われています。

入内の問題もありましたので、「自殺したのでは?」という説もあるようです。


三幡は・・・

頼朝が亡くなって間もない、1199年(正治元年)6月30日、病気で亡くなっています(享年14歳)。

入内の話が進んでいたともいわれ、「暗殺されたのでは?」とも言われています(参考:畠山重忠邸跡)。


頼家は・・・

1203年(建仁3年)、政子自身も深く関与した比企氏の乱後、伊豆国修禅寺に幽閉されます。

そして、翌年7月18日に暗殺されました(参考:源頼家の墓)。

『吾妻鏡』には、頼家の死が伝えられているのみですが、北条氏の手によって暗殺されたとする説が有力です。

だとすると、政子も「頼家が殺されるのを知っていたのではないか?」という疑問も起こります。

ただ、もしそうだったとしても、当時の政子の立場からして、「頼家を助けてくれ」と言うことは難しかったかもしれません・・・。


実朝は・・・

1219年(承久元年)1月27日、兄頼家の次男公暁によって暗殺されました。

実朝を討った公暁もすぐに三浦氏によって討伐されています。

実朝暗殺の黒幕は、北条義時であるとか、公暁の乳母夫であった三浦義村であるという説があるようですが・・・

「直接に誰が関わっていたのか」ということも重要ですし、興味のわくところです。

しかし、実朝も公暁も幕府内部の権力争いに巻き込まれ死んでいったということは事実のようです。そして、政子もその争いの中心人物のうちの一人であったことは確かです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

実朝暗殺事件によって、政子は、子の全てを亡くしました。

孫も亡くしました。

源氏も滅亡しました。

観音さまを描いたのは、「慈悲にすがりたい」と思ってのことなのでしょうか・・・。


北条政子地蔵

伊豆の国市の願成就院の地蔵菩薩像です。

政子の七回忌の折、三代執権北条泰時が奉納したと伝えられています。

言い伝えでは、政子が自分の姿に似せて造らせた仏像であるともいわれています。

自らが地蔵菩薩となって、先に死んだ子たちを救おうと考えたのでしょうか・・・。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

頼朝亡き後、幕府を支え続けてきた政子は、1225年(嘉禄元年)7月11日にこの世を去ります。

勝長寿院で荼毘にふされ、葬られたと伝えられています。

享年69歳。


政子が描いたという観音像
寿福寺

「政子」という名は、1218年(建保6年)に従三位に叙せられたときに、父時政の一字をとって名付けられたといいます。

それまでの名は不明とのことです。


鎌倉手帳


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