1203年(建仁2年)9月2日、北条時政は、二代将軍源頼家の外戚としてその勢いを増していた比企能員を自邸に招き暗殺しました。
そして、北条義時らは、比企邸を襲い、比企氏を滅亡させました(比企氏の乱)。
妙本寺の祖師堂横に建てられている比企一族の墓です。
妙本寺は比企邸の跡地に建てられています。
建てたのは比企能員の末子能本といわれています。
二代将軍源頼家の嫡子一幡(6歳)は、比企氏の乱の際に焼け死んだそうです。
ここには、焼け跡から発見された一幡の着衣の袖が葬られているといいます。
そして、この建物が蛇苦止明神を祀る御堂です。
蛇苦止明神とは、比企能員の娘で、源頼家の嫡子一幡の母親のことだといわれています。
この女性の名については、若狭局と説明するものと讃岐局と説明するものとがあります。
若狭局と讃岐局というのは、同一人物なのでしょうか?、それとも別人なのでしょうか?
どちらが正解ということは別にして、比企氏の乱から約60年が経った1260年(文応元年)、北条政村の娘が何か取り憑かれてしまいます。
この事件につきましては『吾妻鏡』にも記されていまして、原因は比企能員の娘の祟りだったと伝えているようです。
その怨霊を成仏させるために蛇苦止明神として祀ったのだということです。
(参考:物の怪に祟られた北条政村の娘~妙本寺:蛇苦止堂~)
鎌倉市天然記念物のイチョウの木の下に建てられています。
インターネットで調べていましたら、「若狭局がのちに讃岐局と呼ばれた」とする説もありました。
妙本寺で頂戴した「妙本寺第27号」の中の諸堂紹介では、一幡の母親も、蛇苦止明神も、讃岐局として説明しています。
若狭局(または讃岐局)が身を投げたという井戸です。
蛇形井とも呼ばれているようですが、身を投げたのは池だという説もあるようです。
この井戸、大町の六方井に繋がっているという伝説もあります。