源氏再興を果たした源頼朝は、乳母であった比企尼を鎌倉に呼び寄せ住まわせました。
その場所が妙本寺の祖師堂辺りだったといわれています。
そして、「比企ヶ谷」という地名の由来もそこにあるといいます。
1159年(平治元年)に起こった平治の乱で敗れた源頼朝は、伊豆国の蛭ヶ小島に流されました。
その流人生活を支えたのが比企尼だったといわれています。
祖師堂
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逗子の中央に日蓮、向かって右に日朗、左に日輪が祀られています。
祖師堂は、第二祖日朗によって建立され、現在のお堂は、天保年間(1830~1843年)、第四十七代日教よって再建されたものと伝えられています。
大きくて迫力のあるお堂です。
比企一族の墓
祖師堂の横には比企一族の墓とされる供養塔が並んでいます。
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1199年(正治元年)、源頼朝が亡くなると、嫡子の頼家が後を継ぎますが、北条氏と頼家の乳母夫だった比企能員との対立が起こり、
1203年(建仁3年)9月2日、能員は北条時政邸(名越亭)で暗殺されました。
時政は薬師如来の供養といって能員を自邸におびき寄せ、仁田忠常に命じて暗殺させたといわれています。
そして、比企ヶ谷の館も北条義時らによって攻められ、比企氏は滅亡しました(比企氏の乱)。
※能員は比企尼の甥で、のちに養子になっています。
一幡の袖塚 |
比企氏の乱後、焼け跡から見つかった子一幡の袖が葬られていると伝わっています。
一幡は、二代将軍頼家の子です。当時6歳だったといいます。そして、父頼家は、伊豆の修禅寺に幽閉されたのち、翌年暗殺されました。
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