1422年(応永29年)、14代城主小栗満重(小栗判官)は、第四代鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こします。
しかし、1423年(応永30年)8月2日、持氏との戦いに敗れ小栗城は落城してしまいます(小栗満重の乱)。
~小栗満重の乱~
1416年(応永23年)、上杉禅秀が足利持氏に対して起こした反乱(上杉禅秀の乱)では、満重は上杉方に付きます。
戦後、足利持氏に従いますが、かなりの領地を没収されていたといいます。
「小栗満重の乱」は、その事に恨みをもった反乱と伝えられています。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の塔頭長生院には、小栗判官の伝説が伝えられています。
長生院のこの建物は「小栗堂」と呼ばれています。
足利持氏に対して謀叛を起こした小栗満重は、家来10人とともに落ち延びました。
そして、相模国の横山大膳の世話になります。
しかし、大膳は盗賊でした。
大膳は、満重主従に毒の酒を飲ませ財宝を奪おうとしますが、満重だけは大膳のもとにいた遊女の照手姫に助けられます。
(※いろんな伝説の中の一つとしてお読みください。)
満重は助けられた後、鬼鹿毛という荒馬で遊行寺に逃げ込み、遊行上人の助けによって三河に落ち延びました。
その後、悪人横山大膳を滅ぼしたのだと伝えられています。
~小栗堂の裏には・・・~
照手姫建立の厄除地蔵尊
照手姫の墓
照手姫は、満重の死後出家して遊行上人を頼り、名を長生尼(長照尼)と改めて満重の冥福を祈ったと伝えられています。
名馬「鬼鹿毛」の墓
鬼鹿毛は、満重が逃げ延びるときに使った馬です。
小栗判官と十勇士の墓
満重は、落ち延びる途中に横山大膳によって殺された十勇士とともに供養されています。
判官目洗の池
小栗判官の伝説は、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃で演じられたものです。
史実は、「反乱を起こして小栗城が落ちたときに自刃した」ということなのかと思われます。
小栗判官が芝居として取り上げられたのは、近松門左衛門の人形浄瑠璃「当流小栗判官」だったと伝えられています。
近松門左衛門は、元禄期に活躍した人形浄瑠璃と歌舞伎の作者です。「当流小栗判官」は1698年(元禄11年)の作品でした。