源義経は、平治の乱(1159年(平治元年))で敗れた源義朝の九男として誕生します。
母は常盤御前。
幼名は牛若丸。
幼少時代は鞍馬寺で過ごし、16歳のときに寺を抜け出して奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
1180年(治承4年)、兄頼朝が挙兵するとそのもとへ馳せ参じました。
そして、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で平氏を撃ち破り、平氏滅亡の最大の功労者となりますが、許可なく官位を受けたことなどの問題で頼朝の怒りをかいます。
~頼朝の方針と義経の命令違反~
鎌倉の頼朝の政権は、御家人の賞罰は頼朝が決定することと決まっていました。
また、それが新しい政権の求めるものでもありました。
朝廷にも、頼朝の申請に従って行賞されるよう申し入れされています。
しかし、頼朝の代官として京にいた義経がその規定を破り、後白河法皇から無断で検非違使左衛門少慰に任命され、続いて、従五位下に叙せられ、さらに院内の昇殿まで許される出世を果たしてしまいます。
後白河法皇としては、頼朝一人に力が集中することは好ましいことではありませんので、義経と頼朝を対立させ互いに牽制させながら、自らの地位を高めようと考えていたことでしょう。
~無断任官した者への罰~
平氏滅亡の報が届くと頼朝は、頼朝の許可なく朝廷の官職についた25名に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令を出しました。
ただ、この中に義経の名はありませんでした。
しかし、義経の名がなければ、禁令を受けた御家人やその関係者からの反発があることは必定で、そこまで計算された頼朝の計画だったといわれています。
~梶原景時らの訴え~
「合戦の手柄を自分一人のものとしようとしている」という梶原景時の書状が頼朝のもとに届きます。
さらに平時忠の娘を娶ったという情報も寄せられます。
源範頼からも義経の越権行為に対する苦情が寄せられていました。
その他にも、義経に対する御家人の不満が頼朝のもとに届く中、頼朝は畿内西国の御家人に「義経に従ってはならぬ」という命を下します。
~鎌倉凱旋ならず・・・~
平宗盛父子を護送して鎌倉に向かった義経でしたが、義経が鎌倉に入ることは許されず、酒匂・腰越に留め置かれます。
七里ヶ浜の金洗沢という所には義経の鎌倉入りを阻止するための関所が設けられたといいます。
そして、満福寺で書かれたのが「腰越状」です。
義経は、頼朝に対して起請文を何通か出しているようです。
しかし、何の返答もないことから、頼朝の側近である大江広元に出したのが「腰越状」です。
満福寺で頂いたリーフレットに載せられていた「腰越状」のあらすじです。
源義経おそれながら申し上げます気持は、鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって父の恥をすすぎました。
そこできっとごほうびをいただけると思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。
私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。
あらぬつげ口に対し私のいいぶんすらおきき下さらないで、鎌倉にもはいれず、従って日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。
あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にもおあいできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、かようなふしあわせなめぐりあいとなったのでしょう。
亡くなられた父のみたまが、再びこの世にでてきて下さらないかぎり、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、またあわれんでもいただけないのでしょう。
あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく父は亡くなり、母にだかれて、大和国宇田の郡龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。
その当時、京都も動乱がつづき、身の危険もあったので、いろんな所へかくれたり、遠い国へも行ったり、そしていやしい人たちまでにも仕えて、何とかこれまで生きのびてきました。
忽ち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、とび立つ思いで急いでかけつけましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手はじめに義仲を倒し、つぎに平家を攻めました。
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父のみたまをおやすめする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。
その上軍人として最上の高官である五位ノ慰に任命されましたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。
義経は野心などすこしもございません。
それにもかかわらず、このようなきついお怒りをうけては、この義経の気持ちを、どのようにおつたえしたなら、わかっていただけるのでしょうか、
神仏の加護におすがりするほかないように思いましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書をさしあげましたがお許しがありません。
せめて、あなたのおなさけによって義経の心のうちを、頼朝殿にしらせていただきたいと思います。
うたがいがはれて許されるならば、ご恩は一生忘れません。
元暦二年五月 日
源義経
進上因幡前司殿
義経公手洗の井戸
弁慶の腰掛石
弁慶の手玉石
結局、頼朝の許しを得ることはできず、「平宗盛父子を護送して帰京せよ」という命令が届きます。
このとき「頼朝公に不満のある者はついてこい」という発言があったと伝えられています。
京に帰った義経と鎌倉の頼朝との対立はますます激化します。
そして、朝敵とされた義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼りますが、秀衡の死後、その子泰衡に攻められ衣川の館で自刃しました。
「腰越状」の真偽について問われているところもあるようですが、義経の考えや思いがほぼこの「腰越状」の内容なのだとしたら、頼朝としても許すわけにはいかなかったのかと思われます。
鎌倉の武家政権としての方針に対して、「自分のしてしまったことがどういうことなのか」、あるいは、「御家人を統制するということがどのようなことなのか」、それが義経には全く理解されていなかったようです。
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