別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年9月13日金曜日

鎌倉検定過去問~鶴岡八幡宮例大祭~


鶴岡八幡宮例大祭は、旧暦の 8月15日に行われていた〔   〕を新暦に換算して開催されている。初日の早朝、由比ヶ浜で神職全員が海に入り禊ぎをする〔   〕が行われ、2日目には本宮で例大祭が執行された後、若宮大路で〔   〕〔   〕が行われる。最終日には〔   〕流宗家により流鏑馬神事が奉仕される。




鶴岡八幡宮


鶴岡八幡宮例大祭は9月14日~16日。

1187年(文治3年)に源頼朝が催した放生会をその起源としていると伝えられています。




初日の14日早朝、由比ヶ浜では浜降式(禊ぎの儀式)が執り行われ、祭人たちが海に入って身を清めます。

海に入って採られた海藻は、鶴岡八幡宮に持ち帰られ、社頭に掲げられます。

そして、夕刻から宵宮祭(前夜祭)が行わます。



神幸祭

15日は、午前10時から例大祭。

祭事を終えると舞殿で八乙女の舞が奉仕されます。

午後1時からは神幸祭

応神天皇、比売神、神功皇后の神輿が若宮大路の御旅所(二の鳥居)まで渡御します。



八乙女の舞

御旅所でも八乙女の舞が奉仕されます。



小笠原流・流鏑馬

最終日の16日には小笠原流流鏑馬が奉納されます(午後1時から)。


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~土肥実平の焼亡の舞~

例大祭では、「焼亡の舞」も奉仕されています。

1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いに大敗し、しばらく山中をさまよっていた源頼朝一行は、土肥実平の手引きで真鶴から安房国へ船出することとします。

その途中の山上から見えたのは土肥館が焼け落ちる光景でした。




実平頼朝の前で「我が家は何度も焼けば焼け」と謡い舞ったといいます。

それが今に伝えられている「焼亡の舞」

※上の写真は湯河原町の土肥祭で演じられた「焼亡の舞」。




鎌倉検定


鶴岡八幡宮例大祭








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浜降式:鶴岡八幡宮例大祭

神幸祭:鶴岡八幡宮例大祭

流鏑馬


鶴岡八幡宮



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2024年9月10日火曜日

金銅藤原道長経筒~御嶽詣と弥勒信仰と道長の願文~


「金銅藤原道長経筒」は、1007年(寛弘4年)に御嶽詣を行った藤原道長が金峯山山頂に埋納したもの。

寛弘4年8月11日の銘があり、願文(銘文)には「南瞻部州大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長」と刻まれています。

道長の直筆かどうかは不明ですが、一説には藤原行成の筆跡とも・・・

いずれにしても、年代を明らかになっている経筒としては日本最古のもの。


金峯神社

道長の経筒は江戸時代に発掘されたと伝えられています。

現在は金峯神社蔵で国宝(京都国立博物館に寄託)。


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吉野の金峯山を参拝することを御嶽詣といいます。

道長は、1007年(寛弘4年)8月2日に都を発ち、8月11日に金峯山山頂に自ら書写した「法華経」・「無量義経」・「阿弥陀経」・「弥勒経」を埋納、8月14日帰京しています。

左大臣という人臣の最高の地位にいる者が、半月もの間、都を離れるというのは、当時の社会通念では考えられなかったことのようです。

では、何故、道長は御嶽詣を行ったのか?

娘で一条天皇の中宮・藤原彰子の懐妊を願ってという説もあるようですが、経筒の願文には・・・

「法華経は、釈迦の恩に報い、弥勒にめぐりあい、金峯山の蔵王権現に近づくため、

阿弥陀経は、臨終の際に心身乱れず極楽往生するため、

弥勒経は、長い間の重罪を消滅させ、慈尊(弥勒)の出世に会うために埋経した」


ということが記されています。

さらに・・・

「死後(未来)に弥勒が悟りを開いたとき、自らも金峯山に詣でて、弥勒の法華会を聴聞し、

成仏の記(確約)を受けるとき、金峯山に埋めた経が湧き出して会衆を歓喜させるため」


ということも記されているようです。

経筒の願文からすると、道長の御嶽詣は、自身の極楽往生と弥勒菩薩が人間界に現われるという信仰を基に行われたようです。

弥勒菩薩は未来の仏で、釈迦の入滅後56億7千万年後にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。


📎藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~

📎国宝:金峯山経塚出土紺紙金字経~藤原道長直筆の経巻~









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園城寺金堂

園城寺(三井寺)の本尊は弥勒菩薩。

誰も拝することのできない絶対秘仏。

道長は園城寺を信仰し、金堂には道長が奉納した弥勒菩薩も祀られています。


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御嶽詣の翌年、藤原彰子が懐妊。

道長の邸宅・土御門殿では、安産祈願のために法華三十講が行われました。

法華三十講は、法華経三十巻を三十日間にわたって講ずる行事。


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法成寺址

法成寺は、道長が土御門殿の東側に建てた寺。

晩年を法成寺で暮らしたという道長は、1027年(万寿4年)12月4日、死去。

死期を悟った道長は、阿弥陀堂に入って九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、西方浄土を願いながら往生したのだと伝えられています。


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平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。

本尊の阿弥陀如来を造立した定朝は法成寺の造仏も行いました。


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吉野山

吉野は・・・

天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。

藤原道長が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。

源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地。

鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。

そして、後醍醐天皇が南朝を興した地。





藤原道長

藤原彰子


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2024年9月9日月曜日

曲水の宴~平安貴族の遊興~




曲水の宴(きょくすいのえん)は、3月上巳の日(のちに3月3日)に行われていた宮中行事。

旧暦の3月は現在の4月上旬から中旬。

桜のシーズンでもあることから花見の宴を兼ねて行われる事もあったようです。


平安時代中期の摂関時代には内裏の公式行事となり、藤原道長や藤原師通なども自邸で行うようになりますが、中世以降は断絶。

現在、各地で行われている曲水の宴は、近代になって始められたもので、太宰府天満宮・上賀茂神社赤間神宮毛越寺城南宮などで再興されています。



曲水の宴



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鎌倉検定過去問~千葉常胤の進言~


『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか。



1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、8月28日、真鶴から船出して安房国へ渡ります。

参陣を命じられた千葉常胤は、9月9日、鎌倉を本拠とするよう進言したのだと伝えられています。



(鋸南町:竜島海岸)

真鶴から船出した頼朝は、8月29日、安房国の平北郡猟島に上陸。

平北郡猟島は、現在の鋸南町竜島辺りと考えられています。





千葉常胤は下総国の武将。

亥鼻城を本拠としていました。


『北条九代記』によると・・・

作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、

「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。

相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。

陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。

兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」


これに加えて

「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」

「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」

「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」

を申し上げ、

最後に

「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」

と申し上げたのだとか。




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千葉常胤






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