別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年8月29日木曜日

2024龍口法難会~龍口寺のぼたもち供養~






伝説によると・・・

1271年(文永8年)9月12日、鎌倉幕府に捕らえられ、龍ノ口刑場に護送される日蓮の前に一人の老婆が現れます。

老婆は日蓮に「にぎり飯」を差し出しますが、日蓮は空腹と疲労のためか「にぎり飯」を落としてしまいます。

「にぎり飯」は砂だらけとなってしまいますが・・・

日蓮は、

「ありがたや、ごまのぼたもちじゃ」

といって喜んで食べたのだといいます。

そのため、龍口寺龍口法難会は「ぼたもち供養」とも呼ばれ、法要では「ごまのぼたもち」が撒かれます。


龍口法難会は9月11日~12日。

特に盛り上がりをみせるのは12日の夜。



ぼたもち供養:龍口寺



龍口寺

龍口寺は、日蓮龍ノ口法難の霊跡に建てられた寺。








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妙本寺祖師堂開帳

ぼたもち供養:常栄寺




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鶴岡八幡宮例大祭


御霊神社例大祭


お十夜


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2024年8月28日水曜日

小笠原貞宗~小笠原流礼法の中興の祖~


小笠原氏は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の一流。

加賀美遠光の次男で源頼朝に仕えた長清が小笠原を称したことに始まります。

代々、鎌倉幕府に仕えますが、七代目の貞宗は、1333年(元弘3年)5月7日、幕府に反旗を翻した足利尊氏が京都の六波羅探題を陥落させると尊氏に従います。

その後、尊氏の嫡男で人質として鎌倉に留め置かれていた義詮が鎌倉を脱出すると、これに従い、上野国の生品神社で倒幕の挙兵をした新田義貞と合流。

義貞の鎌倉攻めに加わりました(5月22日鎌倉幕府滅亡)。

1335年(建武2年)に起こった北条時行の反乱(中先代の乱)から南北朝内乱の初期にかけても尊氏方の武将として各地を転戦し武功を挙げています。



小笠原流・流鏑馬


鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。

七代小笠原貞宗は弓術・馬術に武家の礼法を加えたとされ、小笠原流礼法中興の祖といわれています。





鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮神幸祭

小笠原流流鏑馬


鎌倉の紅葉


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後白河法皇の願いで再興された東大寺の大仏


東大寺の本尊・銅造盧舎那仏坐像は、聖武天皇の願いで造立された仏像。

東大寺大仏、奈良の大仏と呼ばれ親しまれています。




「盧舎那仏」(るしゃなぶつ)は、釈迦如来の別名で世界を照らす仏・ひかり輝く仏なのだといいます。

左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っているのだとか。


しかし、聖武天皇の大仏は、1180年(治承4年)に平重衡の兵火(南都焼討)によって焼失してしまいます。

南都焼討では藤原氏の氏寺・興福寺が全焼。

東大寺も主要伽藍のほとんどが焼け落ち、難を逃れたのは二月堂法華堂転害門などだけだったのだとか。

東大寺の再興は、南都焼討の翌年から後白河法皇の支援のもとで始められました。

まず行われたのは大仏の鋳造。

大勧進職に重源が就任し、鋳造には宋の工人陳和卿が尽力。

源頼朝も大仏の鍍金料として千両の金を寄進しています(奥州平泉藤原秀衡は五千両の金を寄進。)。

そして、1185年(文治元年)8月28日に開眼供養が行われました。

開眼供養では後白河法皇自らが筆をとったのだ伝えられています。




東大寺



南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~

東大寺大仏殿落慶供養








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鎌倉との繋がりを求めて。
奈良・京都

源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2024年8月27日火曜日

鎌倉検定過去問~来迎寺の三浦義明の墓~


材木座の来迎寺に墓がある武将はだれか。


源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由は何か。


材木座の来迎寺はもともと源頼朝が衣笠城主〔    〕の菩提を弔うために建立した寺であった。戦死した〔    〕は 17 回忌まで生きたものとみなすように頼朝が伝えたため「〔    〕公」とも呼ばれた。


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来迎寺

材木座の来迎寺は、源頼朝三浦義明の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としている寺院。



三浦義明の墓
(来迎寺)

1180年(治承4年)、伊豆国源頼朝挙兵

三浦一族の総帥・三浦義明は頼朝に味方しますが、畠山重忠らに居城の衣笠城を攻められ討死しました(小坪・衣笠合戦)。

来迎寺には三浦義明と孫で由比ヶ浜で命を落とした多々良重春の五輪塔が建てられています。

江戸時代の門付歌に「鶴は千年、亀は万年 三浦大介百六つ」というのがあったそうです。

※門付とは、門前で音曲などを奏する芸。

これは、源頼朝が三浦義明の17回忌で「あなたは今も私の中で生きている」と述べたことに始まっているのだとか。

義明が亡くなった89歳に17歳を足して「百六つ」。




満昌寺
(横須賀)

能蔵寺が建てられたのと同じ年、頼朝は義明の本拠地にも、義明を供養するための満昌寺を建立しています。




鎌倉検定



源頼朝挙兵

石橋山の戦い

小坪・衣笠合戦


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鎌倉検定過去問~日蓮の松葉ヶ谷法難~


日蓮が念仏門徒に松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされたとき、裏山の洞窟へ日蓮を導いたという逸話が残る動物は何か。


日蓮が『立正安国論』を前執権であり、得宗の北条時頼に上書したが、幕府には受け入れられなかった。この後、日蓮は念仏門徒により〔   〕の草庵を襲撃されたが、 〔   〕の導きにより何とか難を逃れた。


松葉ヶ谷の法難のとき、〔   〕に助けられた日蓮が逃げたのはどこにつづく裏山か。


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1260年(文応元年)7月16日、日蓮は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』北条時頼に提出します。

しかし、これが原因となって、8月27日夜、念仏信者らによって草庵が焼き討ちされてしまいました(松葉ヶ谷法難)。





草庵を焼き討ちされた日蓮は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、名越切通の「お猿畠」に避難したのだとか。




逗子の法性寺の山号は「猿畠山」。

日蓮が草庵を焼討ちされた際、3匹の白猿が現れて日蓮をお猿畠に避難させたという伝説が残されています。




日蓮を救った白猿は、かつて修行した比叡山の山王権現(日吉大社)の白猿だったのだとか・・・


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(妙法寺)


(安国論寺)


大町の妙法寺安国論寺、そして材木座の長勝寺が松葉ヶ谷草庵があった場所とされていますが、何処にあったのかは特定されてはいません。






鎌倉検定


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