別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年8月6日火曜日

今日は夏越祭~鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」~




鶴岡八幡宮ぼんぼり祭は、夏越祭とともに始まります。

夏越祭では、チガヤで作られた輪をくぐって無病息災を祈ります(15:00~)。

多くの神社で行われるようですが「牛頭天王(須佐之男命)と蘇民将来の伝説」が起源のようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


むかしむかしの話。

嫁探しの旅に出た牛頭天王(須佐之男命)。

一夜の宿を求めていると立派な屋敷がありました。

大金持ちの蘇民巨旦(そみんごたん)の家です。

しかし、「貧乏人は泊められない」といって断られてしまいます。

困った牛頭天王。

すると、蘇民将来(そみんしょうらい)という男が話しかけてきました。

「私の家にお泊り下さい」

将来は巨旦の兄でしたが貧乏な暮らしをしていたそうです。

それでも将来は粟飯を炊いて牛頭天王をもてなしました。

喜んだ牛頭天王は、

「あなたの子孫は末代まで私が護ってあげよう」

と言って茅の輪を渡します。

その後、疫病が流行った時・・・

蘇民将来は牛頭天王の茅の輪を腰に巻いていたことで助かり、弟の蘇民巨旦は一家全員死んでしまったのだそうです。


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粽
(ちまき)

京都の祇園祭で授与される「ちまき」には、「蘇民将来子孫也」という護符が貼られています。

「私は蘇民将来の子孫です。病気や災いから護って下さい」という意味があるのだとか・・・。


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今日からぼんぼり祭!
ぼんぼり祭

今年の鶴岡八幡宮ぼんぼり祭は8月6日から9日までの4日間。


鶴岡八幡宮









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8月10日の鎌倉は功徳の日!

黒地蔵縁日

四万六千日


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鶴岡八幡宮例大祭


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2024年8月5日月曜日

元妻に乞食なるよう祈られた藤原惟成~貴船神社の伝説~


藤原惟成は、花山天皇の時代に藤原義懐とともに実権を握った貴族。

惟成には、清貧であった頃に支えてくれた妻がいたが、花山天皇が即位すると離縁し源満仲の婿となってしまいます。

『 古事談』によると・・・

怒った元妻は、貴船神社に詣でて惟茂が乞食になるよう祈願。

すると、夢の中で「大きな幸を得た惟茂を今すぐ乞食にすることはできないが、少し待つように」と告げられた。

それから間もなく花山天皇が出家(寛和の変)。

惟成も出家して長楽寺辺りで乞食となり、元妻から食事や白米などを施されたのだとか。




貴船神社は水源を守る神。

寛和の変後には、和泉式部が祈願して夫との復縁が叶ったことから縁結びの神としても信仰されるようになったのだとか。

鞍馬寺に預けられてた遮那王(源義経)が平家討滅の祈願をしたとも伝えられています。









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏



源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


藤原道長

藤原彰子


紫式部年表



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2024年8月4日日曜日

『源氏物語』に出てくる「かささぎ」(カササギ)




紫式部『源氏物語』「宇治十帖」~浮舟の巻~にこう書いています。


「山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる かささぎ の姿も、所からはいとをかしう見ゆるに、宇治橋のはるばると見わたさるるに、柴積み舟の所々に行きちがひたるなど・・・」

山には霞がかかり寒い洲にいるかささぎの姿も風情がある。

宇治橋の方を見ると柴を積んだ舟が所々に行き交っている。


浮舟宇治橋の和歌を詠み交す場面ですが、州に立っている「かささぎ」とは?

鵲(かささぎ)という鳥がいるようですが、州に立てるような鳥ではないようです。

とすると鷺のことか???




宇治十帖は、『源氏物語』五四帖のうちの最後の十帖。

美しいと評判の光源氏の子のと孫の匂宮、そして、美しい姫君の大君中の君浮舟の悲しい恋物語。

匂宮と浮舟の像は、匂宮と浮舟が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面をモチーフにしたもの。



宇治橋の西詰に紫式部像・・・








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紫式部


源氏物語

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宇治十帖


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長保・寛弘の大干ばつと安倍晴明の五龍祭


1004年は深刻な旱魃(干ばつ)に見舞われた年。

藤原道長の『御堂関白記』によると6月10日から有用な降雨がなかったようです。

一条天皇清涼殿の庭で雨乞いの祈祷をしたのだといいます。

そして登場するのが安倍晴明


『御堂関白記』によると・・・

7月14日、晴明が五龍祭を奉仕すると、その日は終日陰り、時々微雨が降り、夜になると大雨になったのだといいます。

一条天皇は晴明に「被物」(かづけもの)を与えたのだとか。

被物は絹織物で働きのあった者に支給されていたようです。


ただ、干ばつ被害を解決するには至らなかったようです。

7月20日には旱魃の凶事を振り払うために長保から寛弘に改元され、8月には大極殿で祈雨の法会が行われているようです。




安倍晴明は、干ばつの年の翌1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没し、嵯峨に葬られたのだと伝えられています。


晴明神社

晴明神社は、1007年(寛弘4年)に一条天皇安倍晴明の偉業を讃えるために創建したのだと伝えられています。

晴明墓は、晴明神社の飛び地境内で、晴明の命日には嵯峨墓所祭が斎行されています。



神泉苑は、794年(延暦13年)、桓武天皇によって平安京の大内裏(平安宮)に接して造営された広大な禁苑。

安倍晴明が行った五龍祭は雨乞いの祭で、龍神が棲むという神泉苑で行われることが多かったようです。

晴明がどこで五龍祭を行ったかはわかりませんが、晴明の息子・安倍吉平は神泉苑で祈祷をして雨を降らせたのだといいます。

平安末期には、静御前が舞って雨を降らせたのだとか・・・










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2024年8月3日土曜日

鎌倉検定過去問~鶴岡八幡宮の大鳥居(一の鳥居)~


(問)写真の建造物を寄進した人物はだれか。




(問)鶴岡八幡宮大鳥居は〔   〕の下馬と海岸の間に建つ石造明神鳥居である。1180年(治承4)に建立されたといわれ、現在のものは江戸幕府4代将軍〔   〕の寄進によって1668年(寛文8)に造られた。



(問)鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)は、若宮大路の下馬と海岸の間に建つ〔   〕造明神鳥居である。現在の鳥居は〔   〕が寄進したもので、鳥居としては数少ない国の重要文化財になっている。


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鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)は、1668年(寛文8年)に徳川家綱が寄進した石造明神鳥居(国の重要文化財)。

二の鳥居三の鳥居も家綱が寄進したものでしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で三つの鳥居全てが倒潰。

1937年(昭和12年)、一の鳥居だけが復元されました。


鶴岡八幡宮一の鳥居


家綱は何故、鳥居を寄進したのか???

伝説によると・・・

家綱の祖母・崇源院鶴岡八幡宮弁財天を信仰していたのだといいます。

ある夜、崇源院は夢の中で弁財天に

「木造の鳥居を石造にするように」

と告げられたのだとか。

ただ、完成したのは孫の家綱の時代だったのだと伝えられています。

崇源院の遺願も込められた鳥居です。


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~創建者は源頼朝~

一の鳥居は、1180年(治承4年)に源頼朝由比若宮( 鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建されたと考えられています。

『吾妻鏡』によると、1241年(仁治2年)4月3日、大地震が発生し、大鳥居内の拝殿が流出。

鳥居の下には拝殿があったようです。



鎌倉検定


鶴岡八幡宮



鶴岡八幡宮の三つの鳥居


歴史めぐり源頼朝


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