別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年5月14日火曜日

葵祭・路頭の儀





葵祭(あおいまつり)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭礼。

清少納言紫式部も見た五穀豊穣を祈願する王朝行事。





5月15日の路頭の儀では、風雅な王朝行列が京都御所を出発(10:30)。

下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かいます。



葵祭



『源氏物語』~葵の巻~


賀茂祭の還御の行列「いとをかし」



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


玉依媛命と賀茂別雷大神~賀茂神社由来物語と葵祭~


埒が明く・・・埒が明かない・・・


落馬してしまった清少納言の父清原元輔


賀茂祭の連歌対決


藤花の宴


賀茂祭に供奉した大江広元

四代将軍九条頼経、賀茂祭を見物する!


堅田供御人鮒奉献奉告祭


紫式部


清少納言


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2024年5月13日月曜日

道長との政権争いに敗れた伊周は三つの罪で左遷


996年(長徳2年)1月16日、花山法皇を射るという事件を起こした藤原伊周長徳の変)。

弟の隆家は、それ以前に藤原道長の従者・秦久忠を隆家の従者が殺害するという事件も起こしていました。

さらに、母高階貴子の父高階成忠が道長を呪詛しているという噂も流れていました。

宮中のみでしか行うことができない大元帥法を私に修したこともあったようです。


翌年2月24日、伊周は・・・

花山法皇を襲撃したこと

詮子を呪詛したこと

〇太元師法を修したこと

という三つの罪で大宰府へ左遷となります。

弟の隆家は出雲国へ左遷。

母の高階貴子は、出立の車に取り付いて同行を願ったが許されず、間もなく病に伏し、10月に薨去しました。

懐妊中の中宮藤原定子(妹)は里第二条宮に退出して出家し、12月、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産しています。



長徳の変



一条天皇


藤原定子

藤原彰子


紫式部

清少納言


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


梅雨の鎌倉は・・・紫陽花


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清少納言の恋人・藤原実方を祀る橋本神社~上賀茂神社~




上賀茂神社橋本神社は、和歌・芸能の守護神・衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀る社。

そこに合祀されているといわれるのが、歌人として知られ清少納言と交際していたともいう藤原実方

実方は、藤原行成に対して起こした不祥事により陸奥守に左遷され、都へ帰ることなく任国で没しますが・・・

『徒然草』によると、死後、その霊が御手洗川に映ったのだとか。




上賀茂神社


下鴨神社


葵祭

光源氏:多賀城・塩竃・名取



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紫式部


藤原道長


藤原彰子


藤原定子


清少納言


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2024年5月12日日曜日

花山法皇を襲撃した伊周と隆家~長徳の変~


996年(長徳2年)1月16日、藤原伊周隆家の兄弟は、花山法皇を襲撃します(長徳の変)。

その理由は、花山法皇が伊周の妾のところに通い始めたから。


伊周の妾とは、藤原為光の娘・三の君(寝殿の上)。

かつて、花山法皇が寵愛した藤原忯子の妹。

一条朝の四納言の一人・藤原斉信の妹。


ただ、花山天皇が通っていたのは、三の君の妹の四の君(藤原儼子)のところでした。

伊周花山法皇は同じ頃に為光の娘のところに通っていましたが、伊周は花山法皇が寝殿の上のところに通っていると勘違いしてしまったのだとか。


寝殿の上は伊周の妾となる前は源雅信の妻だったらしい。

儼子は、花山法皇の崩御後、藤原妍子の女官となり、のちに藤原道長の妾となっています。



長徳の変



一条天皇


藤原定子

藤原彰子


紫式部

清少納言









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2024年5月10日金曜日

一条天皇と内裏焼失と一条院


一条院跡


一条院藤原詮子に献上された邸宅。

999年(長保元年)、内裏を焼かれてしまった一条天皇が里内裏としました。

里内裏は内裏の焼失にともなう仮の皇居。

1000年(長保2年)に内裏が再建されると、10月11日に還御しますが・・・

1001年(長保3年)11月18日、再び内裏が焼失。

11月22日、再び一条院に遷御しました。

1003年(長保5年)、内裏が再建されると、10月8日に還御しますが・・・

1005年(寛弘2年)11月15日、またも内裏が焼失。

この時は、いったん東三条殿(東三条院)に遷った後、1006年(寛弘3年)3月4日、一条院に遷御。

同年には内裏が再建されますが、還御しなかったのだといいます(一時還御しているという説も。)。

1009年(寛弘6年)10月5日、今度は一条院が焼失。

すぐに一条院の再建が始まり、1010年(寛弘7年)11月28日、枇杷殿から再建された一条院に遷御しています。


一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えた紫式部は一条院に出仕していたようです。




1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇一条院の中殿で崩御。

一条院では、南殿を紫宸殿、中殿を清涼殿と呼んでいたそうです。





一条天皇


藤原定子

藤原彰子


紫式部

清少納言









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