1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝は、翌年3月11日、伊豆国流罪となります。
鎌倉の武家政権の歴史は、伊豆国から始まります。
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(函南町:高源寺)
比企尼は頼朝の乳母。
1180年(治承4年)に頼朝が挙兵するまでの約20年間、生活物資の援助をしました。
頼朝ゆかりの高源寺には比企尼の宝篋印塔が建てられています。
比企尼の娘婿の安達盛長・河越重頼・伊東祐清、甥の比企能員なども頼朝の支援者として働いていたものと思われます。
(熱海市)
(箱根町)
流人となった頼朝は、走湯権現(伊豆山神社)や箱根権現(箱根神社)に帰依し、父義朝や源氏一門の菩提を弔いながら過ごします。
(伊豆の国市)
『平家物語』によると、頼朝が流されたのは蛭ヶ小島。
ただ、頼朝の行動からすると、はじめは伊東で暮らしていたのかもしれません。
(函南町:六萬部寺)
頼朝が源氏再興を祈願して法華経六萬部を納めた場所なのだと伝えられています。
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(伊東市)
伊東祐親は、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた武将。
流人頼朝の監視役でした。
(伊東市)
伊豆に流された頼朝は、やがて伊東祐親の娘八重姫と結ばれて男子を授かります。
祐親が大番役で在京しているときの出来事でした。
音無神社が鎮座する「おとなしの森」は、頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという場所。
(伊東市)
日暮八幡神社は、頼朝が八重姫に会うために日暮れになるのを待ったという「ひぐらしの森」に鎮座します。
授かった子は千鶴丸と名付けられ、三人は幸せな日々を送っていましたが、京から戻った祐親は激怒し、千鶴丸は殺害され、八重姫は江間小四郎に嫁がされてしまいます。
(伊東市)
千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、産衣石の上に乗せられて着衣を乾かされた後、丁重に葬られたのだと伝えられています。
(伊東市)
富戸の三島神社には、千鶴丸が祀られています。
(伊東市)
最誓寺は、千鶴丸の菩提を弔うために江間小四郎と八重姫の発願により創建された寺を始まりとすると伝えられています。
(熱海市)
古くは、伊豆山権現・走湯権現と称されていた伊豆山神社。
八重姫の件で、祐親は頼朝も殺害しようとしますが、祐親の子祐清の知らせを受けた頼朝は、伊豆山神社に逃げ込んだのだと伝えられています。
その後、頼朝は北条時政を頼ったようです。
(伊豆の国市)
頼朝のことを忘れられない八重姫は、頼朝のいる北条館を訪ねますが・・・
頼朝は北条時政の娘政子と結ばれていました。
悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に入水したのだと伝えられています。
真珠院にある八重姫御堂には、八重姫の木像と供養塔が安置されています。
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(伊東市)
河津祐泰は、伊東祐親の嫡男。
1176年(安元2年)、奥野での狩猟の後、工藤祐経に殺害されました。
(伊東市)
東林寺は、伊東祐親が殺害された河津祐泰の菩提を弔うために創建した寺院。
祐泰と、祐泰の子で見事に父の仇工藤祐親を討った曽我兄弟の五輪塔が建てられています。
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(伊豆の国市)
毘沙門堂は、後白河法皇に神護寺再興の勧進を強行して伊豆に流されてきた文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。
文覚は、頼朝に源氏再興の挙兵を促したのだとか。
(伊豆の国市)
滝山不動明王は、頼朝と文覚が祈願崇拝したことから旗挙不動明王とも呼ばれています。
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(伊豆の国市:蛭ヶ小島)
頼朝と北条政子が結婚したのは、1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。
(伊豆の国市)
政子は、伊豆国田方郡北条を本拠としていた北条時政の長女。
母は伊東祐親の娘とも言われますが、定かではありません。
北条時政邸の一部だったとされる場所に産湯の井戸が残されています。
(伊豆の国市)
結婚後の頼朝と政子は、北条時政邸に住んでいたようです。
(伊豆の国市)
成福寺は、八代執権北条時宗の三男正宗が父母と北条一族の菩提を弔うために再興した寺。
源頼朝と政子の屋敷があった所と伝えられています。
(伊豆の国市)
守山八幡宮は、北条時政邸の東、守山の中腹に鎮座します。
頼朝が源氏再興を祈願した社と伝えられています。
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(伊豆の国市)
北條寺は、北条義時が建立した寺院。
大蛇に襲われて死んだ嫡子安千代丸の菩提を弔うために建立したという伝説が残されています。
義時は、北条時政の子で政子の弟。
(伊豆の国市)
珍場神社には安千代丸の霊が祀られています。
(伊豆の国市)
豆塚神社は、北条義時が崇敬した社。
北条義時屋敷跡
(伊豆の国市:江間公園)
江間小四郎・江間四郎などと呼ばれた北条義時の屋敷は、江間公園付近にあったのだといいます。
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(三島市)
三嶋大社は、頼朝が源氏再興を祈願した社。
祈願の百日間通った頼朝は、その途上で数々の伝説を残しています。
(伊豆の国市)
成願寺は、頼朝が餅売りの嫗(おうな)のために建立したという寺。
(三島市:右内神社)
右内神社は、三嶋大社の随神門として鎮座する社。
三嶋大社に日参していた頼朝が度々立ち寄っていたのだとか・・・
(三島市)
三嶋大社に参詣の頼朝は、疲労のため路傍の祠の松の根もとで仮眠をとったのだといいます。
以来、松は「まどろみの松」と呼ばれ、祠は間眠神社と呼ばれるようになったのだとか。
(三島市)
妻塚観音堂は、大庭景親の妻が祀られている堂。
頼朝を暗殺しようとした景親は、誤って妻を殺してしまったのだとか。
(三島市)
三嶋大社に参詣する頼朝の後を衝けてくる怪しい女。
頼朝が腕を切り落とすと・・・地蔵尊だった・・・
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(伊豆の国市)
1180年(治承4年)8月17日、挙兵した頼朝は、まず平家の目代山木兼隆を襲撃します。
(伊豆の国市:香山寺)
香山寺は山木兼隆が建立した寺。
(伊豆の国市:香山寺)
皇大神社には山木兼隆が合祀されています。
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(函南町)
高源寺は、相模国へ進軍する頼朝軍の軍勢ぞろえの地と伝えられています。
(函南町)
相模に進軍した頼朝は石橋山に布陣しますが、大庭景親・伊東祐親らの平家軍に大敗。
この戦いで政子と義時の兄宗時が討死しました。
(伊東市)
石橋山では大敗した頼朝でしたが、安房国にわたって再挙し、鎌倉入りを果たします。
富士川の戦いで平家軍を破り、東国支配の基盤を固めていきます。
富士川の戦い後、大庭景親は斬首されますが、伊東祐親は三浦義澄に預けられていました。
しかし、1182年(養和2年)2月14日、義澄邸で自ら命を絶ったのだといいます。
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(伊豆市)
田代信綱は、藤原氏で後三条天皇の末裔ともいわれ、母は工藤茂光の娘。
石橋山の戦い後、安房へと渡った向かった頼朝主従七騎のうちの一人。
(伊豆市)
加藤景廉は、田代信綱の祖父工藤茂光とともに大島の源為朝を征伐した武将と伝えられている武将。
山木館襲撃では、佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取りました。
1203年(建仁3年)の比企能員の変では、比企能員を暗殺した仁田忠常を謀殺しています。
江戸時代に活躍した遠山の金さんは、景廉の子孫。
(函南町)
仁田忠常は、伊豆国仁田郷の武将。
曽我兄弟の仇討事件で曽我祐成を討ち取り、比企能員の変では天野遠景とともに比企能員を暗殺しました。
比企能員の変後、加藤景廉に誅されています。
(伊豆の国市:東昌寺)
天野遠景は、伊豆国田方郡天野の武将。
仁田忠常とともに比企能員を暗殺しています。
東昌寺に伝えられている聖徳太子作という薬師腹篭は、遠景の念持仏と伝えられています。
(伊豆市)
堀親家は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃からの側近。
頼朝の娘大姫の許嫁だったという木曽義高の誅殺を命じられた武将。
比企能員の変後、工藤行光に誅殺されました。
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(伊豆の国市)
願成就院は、1189年(文治5年)に北条時政が源頼朝の奥州征伐の成功を祈願して建てたという寺院。
時政・義時・泰時の三代にわたって整備された伽藍は、平泉の毛越寺を模したものだったのだといいます。
大御堂の阿弥陀如来・毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制咤迦童子(せいたかどうじ)の諸像は、胎内造像銘札により運慶の真作。
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(伊豆市:修禅寺)
源範頼は、頼朝の異母弟。
木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍しましたが、1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちを機に謀反の疑いをかけられ、修禅寺に幽閉された後、梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられています。
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(伊豆市:修禅寺)
安達盛長は、頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に配流の身の頃から頼朝に仕えていた武将。
頼朝亡き後に設置された「13人の合議制」の一人。
何故、修禅寺に墓が建てられているのかは不明ですが、盛長の娘が源範頼の妻だったということに関係があるのかもしれません。
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(伊豆市:修禅寺)
二代将軍源頼家は、1203年(建仁3年)に起こった比企能員の変後、修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されました。
(伊豆の国市)
伝説によると、北条政子は病気となった頼家の容貌を彫らせた面を鎌倉へ送るよう武田信光に命じたのだといいます。
しかし、面が鎌倉に届く前に頼家は暗殺されてしまいました。
光照寺には、信光が鎌倉へ運ぼうとしていたという面が残されています。
武田信光の墓
(伊豆の国市:信光寺)
(伊豆の国市:信光寺)
信光寺は、頼家の菩提を弔うために武田信光が建てたのだと伝えられています。
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頼朝亡き後、梶原景時・比企能員・畠山重忠を滅ぼして鎌倉幕府の実権を握った北条時政でしたが・・・
1205年(元久2年)、後妻の牧の方と将軍源実朝への謀反を企てて、伊豆国追放となり、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で没しました。
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(伊豆の国市:北條寺)
二代執権として鎌倉幕府の実権を握った北条義時は、1224年(貞応3年)6月13日に急死。
頼朝の法華堂の東の山上に葬られました。
後に、義時の子泰時は、北條寺に北条義時夫妻の墓を建てています。
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