安達景盛は、源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頃から仕えていた安達盛長の嫡男。
母は、頼朝の乳母だった比企尼の長女・丹後内侍。
1199年(建久10年)1月13日、源頼朝が亡くなると、その家督は嫡男の頼家が継ぎますが、頼家と景盛は仲がわるかったようです。
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『吾妻鏡』によると・・・
1199年(正治元年)の春、景盛は京から容貌の素晴らしい妾を呼び寄せたそうです。
この女性を自分のものにしようとしたのが頼家。
7月16日、景盛は命により、室重広の横暴を抑えるため三河国へと出発。
すると頼家は、7月20日、中野能成に命じて景盛の妾を連れ出し、小笠原長経の屋敷に囲ってしまいます。
何度も艶文(恋心を書き送る手紙)を出したにもかかわらず、返事がなかったため、強引に連れ出したのだそうです。
7月26日には、御所内の建物に呼びつけて、今後はここにいるよう命じたのだそうです。
8月18日、景盛が三河国から帰ってきますが、翌日には景盛が頼家に対して妾を取られた恨みをもっているという噂が流れます。
すると頼家は、景盛を成敗することにし、夜になって小笠原長経を景盛の甘縄の屋敷へ向かわせることとします。
それを知った北条政子は、急いで景盛邸に入り、頼家のもとへ二階堂行光を遣わします。
頼家に伝えられたことは、
「頼朝様が亡くなり、乙姫も亡くなって、悲しい時に戦いを好むことは世の乱れのもととなります。
景盛は好かれる武将で、頼朝様も情けをかけておられました。
景盛の罪をお聞かせくれれば、私が処分しましょう。
調べもせずに誅殺することは、後悔のもとになります。
それでも、攻めると申すなら、まず私に向かって矢を当てなさい」
これを聞いた頼家は、軍の出発を取りやめたのだとか。
ただ、大江広元はこんなことを言ったそうです。
「こういった問題は例が無いわけではありません。
白河院は、源仲宗の妻(祇園女御)を御所に連れ出して寵愛し、仲宗を隠岐国へ流しました」・・・
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翌日、景盛は政子のすすめで、頼家に野心のないことを記した誓約書を書いています。
その誓約書は佐々木盛綱が使いとなって提出しますが、政子の諌めの言葉も頼家に伝えられたようです。
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