別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年3月8日木曜日

公暁悲劇の道~源実朝を暗殺した公暁が逃げた道~

公暁悲劇の道

建長寺塔頭回春院から奥の天園ハイキングコースへと続く道を入っていくと、「公暁悲劇の道」と呼ばれる古道があります。

この道の先は鶴岡八幡宮の裏山。

今は、途中で道がなくなってしまっていますが二十五坊辺りに通じていたのでしょうか・・・。


1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮で叔父で三代将軍の源実朝暗殺した公暁(くぎょう)。

その後、三浦義村邸へと向かうため、公暁が使ったのがこの道ということで「公暁悲劇の道」と呼ばれているようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

公暁は、1200年(正治2年)、二代将軍源頼家の次男として誕生。

母は辻殿(賀茂重長の娘:源為朝の孫)。

幼名は善哉(ぜんざい)。

三浦義村を乳母夫として成長します。


1203年(建仁3年)9月、父頼家が将軍職を廃され、伊豆修禅寺に幽閉された後、翌年、北条氏によって暗殺されます(比企氏の乱)。


比企一族の墓


その後の善哉は・・・

『吾妻鏡』によれば、

1206年(建永元年)6月16日、北条政子邸では、善哉の「着袴の儀」が行われ、三代将軍源実朝(善哉の叔父)も参列しています。

同年10月20日には、善哉は、政子の命令で実朝の猶子となり、はじめて御所に入ります。

このとき、乳母夫の三浦義村は贈り物を献上しているようです。

1211年(建暦元年)9月15日、鶴岡八幡宮別当の定暁(尊暁)の弟子となります。

法名は「公暁」。

翌日には定暁に伴われ、受戒のため上洛しています。

修行のために入った園城寺では、公胤僧正の弟子となり、「悪別当」と呼ばれていたようです。



園城寺


1217年(建保5年)6月20日、定暁が入寂したため、政子の命令で鎌倉に戻った公暁は、政子から鶴岡八幡宮の別当に補任されます。

この年の10月11日、公暁は別当となってはじめて神拝し、その晩より宿願によって、上宮で一千日間の参籠をはじめました。

『吾妻鏡』1218年(建保6年)12月5日条には、

「公暁は参籠したまま上宮を退出せず、いくつかの祈請をたてて髪も剃らないので、皆がおかしいと怪しんだ」

と記されています。

そして、1219年(建保7年)の正月を迎えます。


鶴岡八幡宮


1219年(建保7年)正月27日、右大臣拝賀式を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然公暁が襲いかかり、実朝は殺害されました(参考:源実朝の暗殺)。

実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったといいます。

その後、山越えをして三浦義村邸に向かった公暁でしたが、義村に遣わされた長尾定景に討ち取られ、首は北条義時邸に運ばれたということです。


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