日本の刀剣史上で著名な五入道正宗は、師の新藤五国光が創始した「相州伝」という作風を完成させた鎌倉時代から南北朝期にかけて活躍した鍛冶職人(刀工)。
その門下には貞宗など多くの名工がいました。
扇ヶ谷にある刃稲荷は、正宗の屋敷に祀られていたという稲荷社。
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鎌倉の海では砂鉄が採取できた!
七里ヶ浜の砂は、砂鉄を多く含んでいることで知られていました。
『新編鎌倉志』には「鉄砂(くろがねずな)あり、黒き事漆の如し」と記されているようです。
今でも稲村ヶ崎付近の砂浜は黒く光っています。
鎌倉で鍛冶産業が盛んになったのは、七里ヶ浜で採れる砂鉄があったからといわれています。
正宗が七里ヶ浜の砂鉄を使ったのかどうかは分かりませんが・・・
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~日蓮に付けてもらった名~
(本覚寺)
正宗という名は・・・
佐渡流罪を許されて、夷堂で布教活動をしていた日蓮に付けてもらったものだといいます。
正宗の生没年は不明のようですが、この伝説によれば、日蓮が鎌倉にいた1274年(文永11年)頃に生まれたということでしょうか。
正宗の法名は「心龍日顕」。
本覚寺の宝篋印塔には、「戌子正月11日 心龍墓 俗名正宗」と刻まれています。
戌子の年とは、
日蓮の伝説からすると・・・1348年(南北朝期)ということになるのでしょうか・・・?
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~綱廣を名乗った正宗の子孫~
戦国時代になって関東の中心が小田原に移ると、鍛冶職人も小田原へと移住していきます。
しかし、正宗の子孫は鎌倉に住みつき、十一代目の子孫は北条氏綱の一字をもらって「綱廣」を名乗り、無量寺ヶ谷に土地も与えられたのだと伝えられています。
(鎌倉歴史文化交流館)
刀工・綱廣の屋敷にあったという合鎚稲荷社の跡。
鎌倉歴史文化交流館の裏山にあります。
昭和60年に発行された沢寿郎先生の『知られざる鎌倉』には、「15、6年前まで「正宗稲荷」の祠があったものです」と書かれています。
『知られざる鎌倉』には、正宗稲荷の祠や鳥居の写真が載せられています。
(鎌倉歴史文化交流館)
無量寺ヶ谷という地名は、かつて泉涌寺末の無量寺があったことに由来しているのだといいます。
ただ、2002年(平成14年)の発掘調査で建物礎石や1293年(永仁元年)の大地震後に造営されたと考えられる庭園遺跡が発見されますが、建てられていた寺院が無量寺という名の寺院だったかどうかは不明なのだそうです。
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2013年(平成25年)、無量ヶ谷の綱廣の屋敷にあったという合鎚稲荷社は、葛原岡神社に移されました。
移されたといっても、もとの社をそのまま移したのではなく、新たに造ったもののようですが・・・。
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~引き継がれる伝統技術~
江戸時代になっても綱廣は無量寺ヶ谷に住み、名工正宗の相州鍛冶として刀剣作りをしてきました。
やがて無量寺ヶ谷は、綱廣谷と呼ばれるようになります。
明治期には軍刀などを作っていましたが、第二次世界大戦後は、刃物や鉄工芸品を作る正宗工芸として、その技術が引き継がれています。
(鎌倉歴史文化交流館)
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