1176年(安元2年)10月、伊豆に流されていた源頼朝を慰めるため、伊豆・駿河・相模の武士が集まって、奥野で巻狩りが催されました。
その帰路、伊東祐親の嫡男河津祐泰が、所領問題で恨みを抱いていた工藤祐経に殺害されるという事件が起きました。
血塚は、河津祐泰が命を落とした場所に供養塚として建てられたのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
椎の木三本
河津祐泰は、大見小藤太と八幡三郎に射殺されたのだと伝えられています。
2人は工藤祐経に命じられ、椎の木三本で待ち伏せしていたのだといいます。
2人が隠れていたという椎の木三本は、最近枯れてしまったそうです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(富士宮市)
殺された祐泰には2人の子がありました。
その子が、のちに仇討ちを決行する曽我兄弟。
2人は、1193年(建久4年)5月28日、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの時に、父の仇・工藤祐経を見事に打ちとっています。
(富士宮市)
その後、兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟の五郎時致は捕えられて処刑されました。
十郎祐成22歳。
五郎時致19歳。
富士裾野には曽我兄弟の墓が建てられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
下田街道
河津祐泰の血塚の前を通るのは旧下田街道。
江戸時代から明治にかけて伊豆の東海岸筋を通る重要な道でした。
それ以前からの鎌倉古道であったとも考えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~源頼朝の伝説~
源頼朝の馬蹄石
河津三郎祐泰の血塚の近くには、源頼朝の愛馬「生月」(いけづき)の蹄のあとが刻まれているという岩。
1815年(文化12年)に伊能忠敬の測量隊が下田街道東浦路を通したときの測量日誌にも「頼朝公馬蹄石」と記されているのだといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
白糸の滝は、曽我兄弟が工藤祐経を討った仇討ちの地にある名瀑。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆