1180年(治承4年)9月19日、鎌倉を目指す源頼朝の下に、2万騎を率いて参陣した上総広常。
上総氏は、平忠常を祖とする房総平氏。
上総介として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していました。
朝夷奈切通の上総介塔は、上総広常の五輪塔と伝えられています。
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~源頼朝は主人となるべき大将~
『吾妻鏡』9月19日条によれば・・・
2万騎の兵を引き連れて頼朝のもとに参じた上総広常は、場合によっては頼朝を討つつもりでいたといいます。
その昔、平将門は、俵の藤太秀郷が味方に駆けつけたのを聞いて、喜びのあまり、髪を結わずに烏帽子の中におし入れて秀郷に会ったといいます。
秀郷は、将門のその軽率な行動を見て「誅罰すべし」と思ったそうです。
その後、将門は秀郷に討たれています。
この故事と同じように、2万騎で参じれば、頼朝はさぞ喜ぶと思っていた広常でしたが・・・
頼朝は喜ぶどころか広常の遅参を咎めたといいます。
頼朝に高貴な相がなければ討とうと考えていた広常は、頼朝を「人の主人となるべき人物」として、穏やかに従うこととしたそうです。
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~白面金毛九尾の狐を退治!~
(※栃木県那須野の「殺生石」の伝説です。)
天下一の美女として知られていた玉藻前(たまものまえ)を寵愛していた鳥羽院。
ただ、その美女は、白面金毛九尾の狐が人間の女性に化けていたものでした。
鳥羽院は、次第に病に臥せるようになります。
医師にも原因がわかりません。
しかし、陰陽師の占いによって玉藻前が原因であることが判明します。
正体を暴かれてしまった玉藻前は、白面金毛九尾の狐に姿を変え、宮中から脱走します。
(※玉藻前の正体を暴いた陰陽師は、安倍晴明ともいわれています。)
その後、白面金毛九尾の狐に姿を変えた玉藻前は、那須野で発見され、鳥羽上皇が差し向けた討伐軍によって退治されました。
その討伐軍の中には、のちに頼朝の挙兵に協力する三浦義明、千葉常胤、上総広常がいました。
白面金毛九尾の狐は、三浦義明の矢で脇腹と首筋を貫かれ、上総広常の長刀でとどめを刺されたのだと伝えられています。
(京都:真如堂)
上総広常と三浦義明に討ち取られた白面金毛九尾の狐は殺生石となって人々を恐れさせたのだといいます。
その石を打ち砕いたのが源翁禅師。
砕かれた石で彫られたのが真如堂の鎌倉地蔵なのだと伝えられています。
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~上総広常邸から出発した行列~
1180年(治承4年)12月12日、頼朝は完成した御所に入ります。
その際に執り行われたのが「御移徒の儀」。
上総広常邸を発った頼朝は、和田義盛の先導で御所へ向かいます。
北条政子の駕には加々美長清、毛呂季光が付き添い、北条時政、北条義時、足利義兼、千葉常胤、安達盛長、土肥実平、岡崎義実などが供奉し、畠山重忠が最後尾を務めたといいます。
御所に入った頼朝は寝殿に上がり、御家人は侍所に対座します。
中央に位置するのは侍所別当の和田義盛でした。
この日、新亭に出仕した御家人は、311人と伝えられています。
『吾妻鏡』はこの日の記事で、頼朝を「鎌倉の主となす」と記しています。
広常の屋敷は、朝夷奈切通付近にあったそうです。
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~『吾妻鏡』が伝える上総広常~
源頼朝の下に参陣し、富士川の戦いや佐竹征伐で活躍した上総広常でしたが・・・
1181年(治承5年)6月19日、頼朝は、納涼散歩のため三浦に出かけます。
三浦一族が準備をした催しでした。
広常も佐賀岡浜で頼朝を出迎えています。
50人余りの部下は、皆下馬し砂浜に平伏しますが、広常は、轡を緩めて敬礼したのみで馬から下りませんでした。
三浦義連は、広常の前に出て、下馬の礼をとるよう促しますが、広常は、「公私共三代の間、未だその礼を成さず」と言ったのだといいます。
その後、衣笠合戦で命を落とした三浦義明の旧跡に場所が移ります。
三浦義澄によって酒宴の席が用意されていました。
酒宴が進んでいくと、岡崎義実が頼朝の水干を所望しました。
水干はすぐに義実に下賜されます。
しかし、広常はこれを妬み「このような美しい服は、広常のような者が拝領すべきであって、義実のような老いぼれに下賜されるのは予想外である・・・」
と息巻いたため、双方が言い合いとなり、あわや殴り合いの喧嘩となるところだったといいます。
これを鎮めたのは、三浦義連だったそうです。
以上は、『吾妻鏡』の記事によるものですが、このような態度が災いしたのか・・・?
ついに広常は、謀叛を疑われてしまいます。
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~暗殺された上総広常~
1183年(寿永2年)12月、頼朝は広常を暗殺します。
『愚管抄』によると、梶原景時が双六に興じている最中に謀殺したということです。
『吾妻鏡』は、事件の詳細を述べていないようですが、
翌年1月17日条には、広常が鎧に結びつけていた願文のことが書かれています。
この願文は、頼朝の祈願成就のための願文でした。
この願文によって、広常に謀叛の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を暗殺したことを悔やんだといいます。
梶原景時が上総広常を討ったあと、この水で刀の血のりを洗い流したと伝えられています。
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~源頼朝のための願文~
『吾妻鏡』によれば・・・
1184年(寿永3年)正月17日、上総一宮から、広常が納めた「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」が頼朝のもとに届きます。
その鎧には、一通の書状が結びつけてありました。
内容は、
一 三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。
一 三箇年のうちに、神殿の造営をすること。
一 三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること。
という計画が書かれ、これらの事を行うのは、「頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものであること」が書かれていました。
この願文によって、広常に謀叛の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を殺してしまったことを悔やんだといいます。
そして、捕らえられていた広常の弟天羽直胤、相馬常清らが、広常の忠義に免じて許されました。
しかし、没収された所領については、返還されることはなかったといいます。
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~後白河法皇に語られた上総広常~
のちに上洛した頼朝は、後白河法皇に・・・、
「上総介広常は東国に勢いのある武士で、東国を打ち従えることができたのも広常を味方につけたため」と話したといいます。
その一方で、
「なんで朝廷のことをあれこれ心配するのか。われわれがこうして板東で活動しているのを、いったい誰が命令なんぞできるものか」
という発言が常であったのだとも話したのだと伝えられています。
広常は、「関東の自立を考えていたから殺害した」というのが頼朝の主張のようです。
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