河内源氏の祖は、清和源氏二代目源満仲の三男頼信。
頼信が河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地としたことから「河内源氏」と呼ばれます。
(羽曳野市・通法寺跡)
頼信は1028年(長元元年)に房総半島で起こった平忠常の乱を鎮圧。
そこから、河内源氏と坂東武士との結び付きが出来上がりました。
(羽曳野市)
壺井八幡宮は、二代頼義が石清水八幡宮を勧請して創建した河内源氏の氏神。
(羽曳野市・通法寺跡)
1028年(長元元年)の平忠常の乱で活躍し、平直方から鎌倉の地を寄進されて東国支配の拠点としました。
鎌倉の由比郷にも石清水八幡宮を勧請しています。
(羽曳野市・通法寺跡)
三代義家は、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。
後三年の役を鎮圧し武神とも呼ばれました。
頼信・頼義・義家の三代で「武家の棟梁」という地位を確立しますが、義家の跡を継いだ義忠は、叔父義光らによって暗殺され、河内源氏は一時勢いを失います。
義忠の後は為義が河内源氏の棟梁を名乗ります。
近年では為義棟梁説は否定されつつあるようですが、ここでその説を取り入れてしまうと、七代目頼朝が河内源氏の棟梁ではなくなってしまいますので・・・
(京都・権現寺)
郎党の相次ぐ不祥事や子為朝の乱行などによって出世できなかった為義。
1156年(保元元年)に起こった保元の乱で、崇徳上皇方につきますが、後白河天皇方についた嫡男の義朝と平清盛に敗れて斬首されました。
(愛知県美浜町・野間大坊)
保元の乱では東国武士を率いて戦功をあげましたが、1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国野間に逃れた後、家臣・長田忠致の裏切りに遭い殺害されました。
(伊豆の国市)
平治の乱後、伊豆国に配流となった義朝の嫡男頼朝。
約20年を伊豆国で過ごした後、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たします。
鎌倉を本拠とした頼朝は、1185年(元暦2年)に平氏を滅ぼし、1189年(文治5年)には奥州藤原氏を滅ぼして、全国を手中にします。
1199年(建久10年)1月13日死去(享年53歳)。
落馬が原因なのだと伝えられています。