別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2017年1月23日月曜日

平家討滅の令旨を発した以仁王と源頼政

1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子以仁王は、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。

以仁王は、邸宅が三条高倉にあったとことから「高倉宮」と呼ばれていました。



御所八幡宮は三條坊門万里小路邸に建てられたのが始まり。


三條坊門万里小路邸は、以仁王(高倉宮)の邸宅があったので「高倉殿」とも呼ばれていました。


『吾妻鏡』によれば、4月9日、源頼政は息子の仲綱とともに三条高倉御所を訪れ、源頼朝をはじめとする全国の源氏に令旨を発し、平家を討ち滅ぼすことを申し入れました。

頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏(参考:六孫王神社)。

1159年(平治元年)の平治の乱では平清盛に味方し、清和源氏の中では唯一人「従三位」に処せられた公卿でした。


以仁王と頼政の計画は、間もなく平家方に露見し、5月26日、2人は南都の興福寺へ向かいます。

(興福寺の僧兵を頼ったものと考えられています。)


当時は多くの僧兵を抱えていました。


しかし、宇治で平家の軍勢に追いつかれ合戦となってしまいます。

頼政は宇治橋の橋板を落とし、平等院に籠もって奮戦しましたが、平氏の大軍の前に敗れ、自刃しました。


扇の芝
(源頼政終焉の地・平等院)

源頼政の墓
(平等院塔頭・最勝院)

平等院



頼政が平等院で時間を稼いでいる間、以仁王は興福寺へと向かいますが、南山城の加幡河原で追討軍に追いつかれて討たれたといいます。

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