小田原北条氏(後北条氏)の初代・北条早雲が初めて持った城は駿河国の興国寺城(1487年(長享元年))。
1491年(延徳3年)には、伊豆国に進出して韮山城を居城とします。
韮山城を拠点に相模国へ進出した早雲は、1495年(明応4)、小田原城を奪取し、相模国を平定しました。
※ただし、早雲が小田原城を居城としたことはありません。
その後、北条氏は武蔵、下総、駿河にまで領土を拡げ、三代氏康の時代になると、小田原城は難攻不落の城と呼ばれるようになります。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの時には、城下町を囲む長さ9㎞の総構となっていました。
八幡山古郭は、当時の小田原城の主郭があった場所と推定されています。
石垣山城は、豊臣秀吉が北条氏攻略のために築いた城。
一夜城として知られていますが、約80日間の工期をかけて完成させました。
完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれています。
この城の出現は、北条氏側の将兵の戦闘意欲を喪失させる効果があったのだといいます。
滞在期間100日の間には、淀殿や千利休が呼ばれて茶会が催され、天皇の勅使を迎えたり、能役者や猿楽師も呼ばれたと伝えられています。
1590年(天正18年)7月5日、小田原北条氏五代当主・北条氏直は降伏し小田原城は落城。
秀吉は、小田原攻めを招いた責任者として四代当主・北条氏政と弟・氏照に切腹を命じ、二人は7月11日、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃。
氏直は高野山へ追放となります。
これによって小田原北条氏は滅亡しました。
(早雲寺)
箱根湯本の早雲寺は、北条早雲の遺言により二代当主・氏綱が創建した後北条氏の菩提寺。
墓地には北条五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の墓が建てられています。
現在の小田原城天守閣は、北条氏の時代のものではなく、江戸時代の雛形や引き図をもとに、1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート造で復興されたもの。
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