覚賢五輪塔は、鎌倉時代に創建されて室町時代まで存続していたと考えられている多宝寺の跡にあります。
高さ約3メートルの巨大な安山岩製の塔。
1976年(昭和51年)の修復のときに、地輪の下方からみつかった銅製の骨壺に「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年3月16日入滅」と彫られていたことから、1306年(嘉元4年)に入滅した覚賢の五輪塔であることが判明しました。
覚賢五輪塔は、毎年、鎌倉まつりの開催期間中に公開されています。
覚賢五輪塔は、浄光明寺の裏山を上り、尾根を進んだところにありますが、その途中には見所がたくさんあります。
網引地蔵は、鎌倉二十四地蔵の一つで、由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き上げられたものだと伝えられています。
冷泉為相は、藤原定家の孫で、『十六夜日記』で知られる阿仏尼の息子。
母を追って鎌倉に下ったとされ、鎌倉で没したと伝えられています。
この宝篋印塔は徳川光圀が建てたもの。
冷泉為相墓前からの景色
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