柳沢吉保は、徳川五代将軍綱吉の側用人として活躍した人物。
柳沢氏は甲斐源氏の武田氏一門でしたが、武田氏の滅亡後、吉保の祖父にあたる信俊が徳川家康に仕官したのだといいます。
1672年(寛文12年)に恵林寺で執り行われた武田信玄百回忌の法要の奉加帳にも名を連ねているようです。
1704年(宝永元年)、五代将軍綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決定すると、吉保は甲斐国甲府城主となります。
翌1705年(宝永2年)には、恵林寺で武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっています。
(恵林寺)
しかし、綱吉が亡くなると、儒者新井白石が権勢を握るようになり、吉保も幕府の役職を辞し、長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居しています。
1714年(正徳4年)11月2日死去。
(恵林寺)
家督を譲られた吉里は、1710年(宝永7年)に甲府城に入城します。
甲府藩のこれまでの藩主は甲府城に入ることはありませんでしたが、吉里の入城によって初めて甲府藩に藩主が迎えられました。
1722年(享保7年)、吉里は恵林寺で武田信玄の150回忌法要を執り行っています。
1724(享保9年)、八代将軍徳川吉宗の享保の改革によって、甲斐は直轄領化され、吉里は大和郡山藩主として移封されますが、甲斐国は約20年にわたって柳沢父子に治められました。
吉里は移封されるに当たって、吉保が菩提寺として建てた黄檗宗永慶寺にあった吉保の墓塔と、塔頭の真光院にあった吉保夫人の墓塔を恵林寺に移しています。
甲府五山の一つ東光寺には、吉里の男子二人の墓が建てられています。