東慶寺は、八代執権北条時宗の未亡人・覚山尼が開いた寺。
江戸時代まで女性救済のための尼寺でした。
歴代住持の墓
五世には、後醍醐天皇の皇女・用堂尼が、十七世には、小弓公方足利義明の娘・旭山尼(参考:聖観音像)が、二十世には、豊臣秀頼の娘・天秀尼(徳川家康の娘・千姫の養女)が住持となり栄えました。
~駆け込み女と縁切り寺法~
東慶寺に駆け込んだ女性は「駆け込み女」と呼ばれていたそうです。
駆け込み女は御用宿に引き渡され、事情を聴かれます。
東慶寺の門前には柏屋・仙台屋・松本屋という3軒の御用宿があったといいます。
御用宿での取り調べが終わると、寺飛脚が呼出状を持って夫の所へ駆け、家主や名主らとともに鎌倉に呼びつけられます。
駆けつけた夫方も御用宿に宿泊しますが、妻とは別の宿が用意されていました。
同じ宿だと大喧嘩になる可能性があるためです。
御用宿で両者の言い分が聞き取られた後は、まず示談の話となります。
やり直すこととなる場合もあれば、夫が離縁状を提出する場合もあったようです。
しかし、示談とならかった場合はどうなるのか・・・
「妻は離縁を望み、夫は離縁状を書かない」というときは、妻は東慶寺に入山することになります。
そして、2年間の奉公を終えると、夫は離縁状を書かなければなりませんでした。
こういった仕組みが東慶寺の「縁切り寺法」だったようです。
※江戸時代まで女性から離縁するという事ができませんでした。
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