別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2015年2月9日月曜日

駆け込み女と縁切り寺法・・・北鎌倉:東慶寺


東慶寺は、八代執権北条時宗の未亡人・覚山尼が開いた寺。

江戸時代まで女性救済のための尼寺でした。


歴代住持の墓

五世には、後醍醐天皇の皇女・用堂尼が、十七世には、小弓公方足利義明の娘・旭山尼(参考:聖観音像)が、二十世には、豊臣秀頼の娘・天秀尼(徳川家康の娘・千姫の養女)が住持となり栄えました。


~駆け込み女と縁切り寺法~


東慶寺に駆け込んだ女性は「駆け込み女」と呼ばれていたそうです。

駆け込み女は御用宿に引き渡され、事情を聴かれます。

東慶寺の門前には柏屋・仙台屋・松本屋という3軒の御用宿があったといいます。

御用宿での取り調べが終わると、寺飛脚が呼出状を持って夫の所へ駆け、家主や名主らとともに鎌倉に呼びつけられます。

駆けつけた夫方も御用宿に宿泊しますが、妻とは別の宿が用意されていました。

同じ宿だと大喧嘩になる可能性があるためです。


御用宿で両者の言い分が聞き取られた後は、まず示談の話となります。

やり直すこととなる場合もあれば、夫が離縁状を提出する場合もあったようです。


しかし、示談とならかった場合はどうなるのか・・・

「妻は離縁を望み、夫は離縁状を書かない」というときは、妻は東慶寺に入山することになります。

そして、2年間の奉公を終えると、夫は離縁状を書かなければなりませんでした。

こういった仕組みが東慶寺の「縁切り寺法」だったようです。


※江戸時代まで女性から離縁するという事ができませんでした。


 天秀尼







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 東慶寺

 東慶寺


莫煩悩 北条時宗 国難を救った英雄


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