午前8時、国宝の梵鐘が撞かれ施餓鬼会が始まります。
景時は、源頼朝に重く用いられ侍所の次官を務めた人物。
しかし、頼朝が亡くなった年の1199年(正治元年)、結城朝光を讒言したとして、御家人66名の弾劾に遭い、鎌倉を追放されました。
翌1200年(正治2年)正月20日、上洛途上の駿河国で討たれています。
https://www.yoritomo-japan.com/ikusa/kajiwara.htm
(梶原景時の変(鎌倉手帳))
建長寺の三門梶原施餓鬼は、そんな梶原景時の亡霊を弔うために行われます。
建長寺が開かれて間もない7月15日、三門(山門)下では通常どおりの施餓鬼会が行われていました。
終了直後、武者一騎が駆けつけますが、施餓鬼会が終わったのを見た武者は残念そうに引き上げていったそうです。
開山の大覚禅師(蘭渓道隆)は、すぐに傍らにいた僧にその武者を追わせ、もう一度施餓鬼会を執り行いました。
施餓鬼会が終わり、大覚禅師が武者に問うたところ、「われは梶原景時の霊である」と答えて感謝の言葉を述べながら姿を消したといいます。
それ以来、建長寺では、7月15日の午前中に「三門施餓鬼」を、午後に「梶原施餓鬼」を執り行ってきたといいます。
現在は、午前8時からの約1時間、本山、近在末寺の僧侶が集まって行われています。
(三門梶原施餓鬼会(鎌倉手帳))
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