源平合戦の英雄でありながら、義経が歴史上に登場するのはごくわずかです。
~誕生~
1159年(平治元年)
(京都市北区)
源義経の父は河内源氏の棟梁・源義朝、母は常盤御前。
幼名は牛若。
~父義朝敗死~
1160年(平治元年)1月3日
(愛知県美浜町)
牛若が生まれた年の12月、父義朝は平清盛に敗れ、逃亡途中の尾張国野間で家臣の裏切に遭い殺されました。
同母兄の今若は醍醐寺で、乙若は園城寺で出家しています。
牛若は、『平家物語』や『義経記』などでは、母とともに大和国へ逃げて・・・などと伝えられているようですが、どこでどのように暮らしていたのかは不明です。
~鞍馬寺に入る~
1169年(嘉応元年)頃
(京都市左京区)
牛若は、11歳の頃、鞍馬寺に預けられます。稚児名は遮那王。
鞍馬寺に預けられた牛若がどのような暮らしをしていたのかは不明です。
~奥州へ下る~
1174年(承安4年)頃
(京都市上京区)
僧になることを嫌った牛若は、16歳の頃、鞍馬寺を出奔し、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
このとき、近江国あるいは尾張国で元服して「義経」と名乗ったといわれています。
首途八幡宮(かどではちまんぐう)は、義経を手助けしたという金売吉次の屋敷があったところとされ、義経はここで祈願して奥州へと旅立ったと伝えられています。
奥州へ下った義経が、どのような暮らしをしていたのかは不明です。
「源義経奥州首途之地」碑
~異母兄・頼朝との対面~
1180年(治承4年)10月21日
(静岡県清水町:八幡神社)
1180年(治承4年)、異母兄の源頼朝が挙兵すると、義経は奥州を出て、頼朝のもとへ馳せ参じます。
10月21日、黄瀬川宿で対面した2人は涙を流して喜んだといいます。
静岡県清水町の八幡神社境内には、2人が腰を掛けたという石が残されています。
その後、義経は鎌倉に入ったものと思われますが、鎌倉での暮らしについては不明です。
~源平の戦い~
1183年(寿永2年)~1185年(元暦2年)
(宇治市)
1183年(寿永2年)10月、京の木曽義仲を討つため、頼朝の代官として出陣。
翌年1月20日には宇治川の戦いに勝利し、京へ入ります。敗走した義仲は近江国粟津で討死しました。
続いて、平氏追討を命じられた義経は、2月7日、一の谷で平氏軍を破ります。
誕生してからの詳しいことが不明で、上洛時にも名を知られていなかった若武者が、この2つの合戦によって歴史の表舞台に登場しました。
一の谷の戦い後、ともに頼朝の代官として派遣されていた異母兄の範頼は鎌倉へ帰りますが、義経は引き続き京に留まります。
その後、義経は平氏追討のため西国へ出陣することとなっていましたが、7月、伊賀・伊勢の平氏の残党が蜂起したため、その鎮圧にあたります(三日平氏の乱)。
西国へは鎌倉から派遣された範頼が向かいました。
この間の8月6日、義経は後白河法皇より左衛門少尉・検非違使に任じられ、9月には、河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えています。
1185年(元暦2年)1月、再び平氏追討に起用された義経は、2月19日、屋島の平氏を奇襲し、3月24日、壇ノ浦で平氏を滅亡させました。
~鎌倉凱旋のはずが・・・~
1185年(文治元年)5月
(鎌倉市)
1185年(文治元年)5月7日、義経は平宗盛父子を護送して、鎌倉へ凱旋するために京を発ちますが、兄頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
義経は腰越の満福寺に留まり、5月24日、頼朝の側近・大江広元あてに手紙を出しています(腰越状)。
弁明のための手紙だったようですが、頼朝は許さず、6月9日、再び宗盛父子を護送して帰洛します。
頼朝が義経を鎌倉から追放した理由には、頼朝に無断で任官されたことや、合戦での独断専行が報告されていたことにあるようです。
(大和市)
公所浅間神社には、京に帰る途中の義経の鶴舞伝説が残されています。
(府中市:高安寺)
高安寺の古井戸は、弁慶が硯の水に使った井戸と伝えられています。
~土佐坊昌俊の襲撃~
1185年(文治元年)10月17日
(東京・渋谷)
1185年(文治元年)10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が義経の六条室町邸を襲撃しました。
襲撃は失敗に終わっていますが、後白河法皇は義経の要請に応じて「頼朝追討の宣旨」を発しています。
東京渋谷の金王八幡宮は、土佐坊昌俊ゆかりの神社です。
~都落ち~
1185年(文治元年)11月3日
後白河法皇が発した「宣旨」に怒った頼朝は黄瀬川まで軍を進めますが、義経は思うように兵が集まらず、都を落ちて、海路を九州へ向かおうとしましたが、大物浦で難破してしまいます。
ここから義経の長い逃亡生活が始まりました。
そして、しばらくの間、義経の行方は不明となります。
一方、頼朝は朝廷に強硬な態度でのぞみ、「義経追討の院宣」を出させるとともに、義経逮捕のための「守護・地頭の設置」を認めさせています。
「静の舞」は、義経の愛妾・静御前の舞。
静は、義経と行動を共にしていましたが、吉野山で義経と別れた後に捕えられてしまいます。
鎌倉へ送られてきた静は、鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を舞いました。
~奥州平泉~
1187年(文治3年)春頃
(岩手県)
行方をくらませた義経は、京都に身を潜めていたものと考えられています。
しかし、頼朝の探索が厳しくなり、京都にいることが出来なくなった義経は、探索の網をかいくぐり、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
いつ頃奥州へ下ったのかは定かではありませんが、1187年(文治3年)の春頃ではないかと考えられています。
~北方の王者秀衡の死~
1187年(文治3年)
(岩手県平泉町)
奥州平泉の藤原秀衡を頼った義経でしたが、1187年(文治3年)10月29日、頼みの秀衡が亡くなります。
秀衡は、長男・国衡と次男・泰衡に対し「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したといいます。
秀衡の遺体は中尊寺金色堂に納められています。
~最期~
1189年(文治5年)閏4月30日
(岩手県平泉町)
奥州平泉に逃れてから約2年後、義経は、頼朝の圧力に屈した泰衡に衣川館を攻められ、妻子とともに自刃しました(享年31)。
高館義経堂は、1683年(天和3年)、義経の衣川館跡に、仙台藩主・伊達綱村によって建てられた堂。
~首実検~
1189年(文治5年)6月13日
(鎌倉市)
自刃した義経の首は、鎌倉へと送られ、腰越の浜で首実検が行われました。
言い伝えによると、首実検後に捨てられた義経の首は、境川を遡上し、藤沢の白旗付近に辿り着いたといいます。
藤沢の白旗神社には、祭神として義経が祀られています。
~鞍馬に帰った義経の魂~
(京都:鞍馬寺)
奥州平泉で最期を遂げた義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬に帰ったといわれています。
鞍馬寺の義経堂は、遮那王尊を祀る堂です。
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