このときは、資朝が佐渡流罪、俊基は無罪放免となりました。後醍醐天皇には何の処分もありませんでした。
しかし、後醍醐天皇はその後も倒幕を計画します。
1330年(元徳2年)頃になると、寺社の武力を味方に付けるため、東大寺、興福寺、比叡山などに参詣しています。
しかし、1331年(元弘元年)、またもや計画が幕府に漏れ、円観・文観・忠円が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られました。
拷問にかけられた文観は、後醍醐天皇の命により、幕府調伏の祈祷を行っていたことを白状し、忠円も比叡山を味方に付けようとしていたことなどを白状したといいます。
文観は硫黄島、忠円は越後、円観は陸奥へ流罪となりました。
※円観は鎌倉幕府滅亡後、宝戒寺の開山に迎えられている。
翌1332年(元弘2年)には、正中の変で佐渡流罪となった日野資朝が処刑され、正中の変では無罪となった日野俊基が捕らえられ葛原ヶ岡で処刑されています。
後醍醐天皇は隠岐流罪となりました(元弘の変)。
葛原ヶ岡の日野俊基墓
(俊基の命日(6月3日)は葛原岡神社例祭です。)
翌1333年(元弘3年)、隠岐に流された後醍醐天皇が挙兵します。
幕府は、これを追討するため足利高氏(尊氏)を派遣しますが、高氏は後醍醐天皇に味方して、5月7日、六波羅探題を陥落させました。
翌日には新田義貞が挙兵し鎌倉に攻め上ります。
そして5月22日、稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った新田義貞は、東勝寺の北条高時らを自刃に追い込みます(鎌倉幕府の滅亡)。
将軍守邦親王は出家、執権赤橋(北条)守時は討死(参考:洲崎古戦場跡碑)。
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、「建武の新政」を開始します。
しかし、足利尊氏が離反して光明天皇を擁立し(北朝)、「建武式目」を制定して幕府を開いたことから、後醍醐天皇は吉野に入り吉野朝廷を樹立しました(南朝)。
以後、しばらくの間、南北朝時代が続きます。
★後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基
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