1192年(建久3年)7月12日に征夷大将軍となった源頼朝は、翌1193年(建久4年)3月21日に入間野・那須野で巻狩を催すため鎌倉を発ちます。
後白河法皇の一周忌法要が終わるのを待ってのことでした。
この巻狩は、遊興のために行ったものではありません。
征夷大将軍としての大軍事演習です。
3月25日には武蔵国入間野で鳥猟が行われ、藤沢清親が百発百中の妙技を披露したといいます。
4月には那須野に入り、小山朝政、宇都宮朝綱、八田知家がそれぞれ1000人の勢子を動員するという大規模な狩りを行いました。
那須光助が食事の用意をしています。
※勢子・・・狩猟の場で鳥獣を追いたてる者。
※那須光助は、巻狩に先だって、その準備料として下野国の一村を与えられている。
那須野に20日間ほど滞在した頼朝は、上野国を経て28日に鎌倉へ戻っています。
このときに使用されたのが仮粧坂を起点とする「上の道」だったとのではないかといわれています。
藤沢市の柄沢神社には、巻狩の路次に頼朝が参拝したことが伝えられています。
翌5月8日、今度は富士の裾野で巻狩を催すため鎌倉を発ち、15日には到着します。
翌日、嫡男の頼家が鹿を射とめます。愛甲季隆が獲物を追いつめてくれたそうです。
頼朝は大いに喜び、さっそく梶原景高を使わして鎌倉の北条政子に知らせますが、景高は「武家の子が鹿を射たくらいで・・・」と言われ恥をかいたといいます。
さて・・・この富士の巻狩では重大事件が発生しています。「曾我兄弟の仇討ち」です。
『吾妻鏡』を読んでいると、重大事件が発生する前には、必ずといっていいほど奇妙な事件が発生しています。
曾我兄弟が親の仇工藤祐経を討ったのは5月28日、その前日に工藤景光が大鹿に出逢います。
景光は狙った獲物を逃したことがない弓の名手でしたが、二度三度射ても当たりませんでした。
景光はその時、「神鹿ではないか」と思ったそうです。そして、その晩から病に倒れてしまったので、頼朝も狩を止めたほうがよいと考えたようですが、宿老たちによって止められたのだといいます。
そして、翌日の夜半に曾我兄弟による仇討ちが発生しました。
この事件は、のちに頼朝の弟範頼の失脚へと繋がり、範頼は修禅寺へ流され間もなく暗殺されています。
頼朝が鎌倉へ戻ったのは6月7日のことでした。
毎年、鎌倉宮で奉納される「草鹿」は、「富士裾野の巻狩」を起源としているそうです。