国民に大きな幸福をもたらしたいと願う聖武天皇は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経各10部を写経させることとし、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めることを思いつきました。
そして、741年(天平13年)2月14日、「国分寺建立の詔」を発します。
こうして各国の国府が置かれている地に国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建立され、大和国の東大寺と法華寺は、その総本山として位置付けられました。
その布告には・・・
★国分僧寺には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、国分尼寺には水田十町を施すこと。
★国分僧寺には、二十人の僧を住まわせ、その寺の名は「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)とし、国分尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)とすること。
二つの寺は距離を置いて建て、僧尼は教戒を受けるようにすること。
もし僧尼に欠員が出た場合には、直ちに補充すること。
毎月8日に、必ず最勝王経を読み、月の半ばには戒喝羯磨(かいかつま)を暗誦すること。
★毎月の六斎日(8・14・15・23・29・30日)には、漁や狩りをして殺生してはならない。
と記されているようです。
復原された相模国分寺の七重塔
(海老名市)
相模国分寺は、海老名に建てられたといいます。
相模国の国府は平塚にあったと考えられていますので、相模国の場合、特殊なケースだったのかもしれません。
そんな国分寺も律令体制が緩みはじめると荒廃していきます。
源頼朝は、東海道各国や相模国近国の国分寺修復に努めました。相模国分寺もその一つだったと考えられます。
また、妻北条政子の安産祈願のため神馬も奉納しています(参考:北条政子の安産祈願所)。
相模国:一国一社の平塚八幡宮
平塚八幡宮は、「一国一社の八幡宮」とされ、国府や国分寺の守護神の役割を果たしていたといいます。
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