別冊『鎌倉手帳』




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2013年2月11日月曜日

北条早雲と鎌倉

北条早雲は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自としているといいます。

本当の名は伊勢盛時。

後北条氏(小田原北条氏)の祖。

1493年(明応2年)、堀越公方足利政知の子茶々丸を攻撃して伊豆国韮山城を奪い取ると、1495年(明応4年)には、相模国の小田原城を奪い取り、相模進出の拠点としました。

これが戦国時代の幕開けともいわれています。

※後北条氏が「北条」を名乗るのは、二代氏綱の代からで、早雲が北条を名乗ったという事実はない。







相模に進出した早雲は、1510年(永正7年)、鎌倉に住吉城を築きますが、三浦道寸(義同)によって奪われてしまします。

早雲を退かせた道寸は岡崎城に入りました。

※三浦道寸は、1247年(宝治元年)に北条時頼によって滅ぼされた三浦氏の末裔(参考:宝治合戦)。


住吉城址からの景色
(逗子市)

(伊勢原市)


1512年(永正9年)、早雲は、道寸の岡崎城を攻め、さらに住吉城を攻めて道寸を三浦の新井城に敗走させます。

これにより早雲は、相模の支配権を手に入れました。

逗子市の海前寺には、三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬ったとされる首塚があります。

同じく逗子市の延命寺には、三浦道寸の弟道香と主従の墓が建てられています(道香は、道寸が新井城に退く際に、ここで自刃しました。)。


海前寺の首塚

延命寺の三浦道香主従の墓


そして、新井城の三浦道寸攻略のために北条早雲によって築かれたのが玉縄城




北条早雲は、玉縄城を拠点に三浦道寸の籠もる新井城を攻め、1516年(永正13年)、三浦道寸を自刃に追い込んでいます。

※三浦氏は、鎌倉時代と戦国時代の二度にわたって北条氏に滅ぼされたことになります。


新井城址の三浦道寸の墓


三浦道寸を滅ぼし相模全域を平定した北条早雲は、1518年(永正15年)に家督を嫡男氏綱に譲り、1519年(永正16年)に亡くなりました。




後北条氏が使用した紋は、鎌倉時代に北条氏が使用したミツウロコ紋と同じ。

一説には、鎌倉時代の北条氏が使用したのが平体紋(二等辺三角形)で、後北条氏が使用したのが正体紋(正三角形)だといわれるが、明らかではない。

参考:北条氏のミツウロコ

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