「草鹿」(くさじし)の起源は、1193年(建久4年)に源頼朝が催した「富士裾野の巻狩り」に遡ります。
頼朝は、度々鹿を射損じる家人に対して、草を鹿の形に束ねさせ、それを射る稽古をさせたといいます。
これが「草鹿」の始まりだといわれています。
鹿の的 |
「草鹿」は、射手が5人ずつ2組に分かれ、古式にのっとって「鹿の形」を射て、その点数を競い合います。
矢が放たれると、的奉行が「当たり外れ」と「所作」を判定します。
やはり武道ですので「所作」の判定も大切なことです。
射手と的奉行とが、「どこに矢が当たったか」などを問答するのも「草鹿」の特徴の一つです。
競技では、まず各組4人が出て点数を競い合います。
そして、各組の大将が登場します。
勝ち組の大将には、「菖蒲」が授与されます。
~参考・・・富士の巻狩り~
1193年(建久4年)、源頼朝は富士裾野で大規模な「巻狩り」を催します。
頼朝を中心とする東国武士の力を公家に認めさせるための「大軍事演習」だったと考えられています。
「巻狩り」には、頼朝の長男頼家も同行し鹿を射止めました。
さっそく鎌倉の北条政子にそのことが知らされますが、政子は・・・「武家の子が鹿を射たくらいで・・・」として使者を追い返したといわれています。
さて・・・
この「巻狩り」で起きた事件といえば・・・「曾我兄弟の仇討ち」です。
曾我十郎祐成と曾我五郎時致が親(父:河津祐通(祐泰))の仇として工藤祐経を討った事件です(参考:曾我兄弟の仇討ち・・・)。
この事件がきっかけで、頼朝の弟範頼が伊豆修禅寺に流され、のちに梶原景時に攻められ自害しています(参考:源頼朝の弟範頼)。
鎌倉手帳
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