1185年(元暦2年)3月8日、四国を任されていた源義経からの伝令が鎌倉の頼朝のもとに到着し、屋島の戦いの勝報を伝えます。
一方、九州を任された源範頼からは、その翌日に伝令が到着し、兵粮の徴収に苦労している上、和田義盛、大多和義久、工藤祐経などが帰参を欲していることなどが伝えられています。
義経と範頼の報告とでは大きな差がありますが、頼朝は3月11日、統制のとれない範頼に対して激励の返書を送っています。
さらに、千葉常胤、北条義時、小山朝政、小山宗政、中原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経、宇佐見祐茂、天野遠景、仁田忠常、比企朝宗、比企能員に対しても書状をしたためています。
源義経 |
屋島の戦い後、周防国に到着した義経は、3月21日、平氏を攻めるため壇ノ浦を目指そうと準備を進めていましたが、激しい雨のために延期しています。
そこへ周防国の在庁官人で船奉行の任にあった船所五郎正利が、数十艘の船を率いて義経のもとを訪れます。
義経は、正利に「鎌倉殿の御家人たるべし」との書状を与えたといいます(これは頼朝に対する越権行為なのでしょう・・・)。
3月22日、義経は壇ノ浦を目指して出航します。
それを聞きつけた三浦義澄が周防国の大島の津までやって来ました。
義経は、義澄の案内で船を進め、平氏の陣営から30余町(約3㎞)あまりの壇ノ浦の奥津に布陣します(三浦氏は、東国の武士としては珍しい水軍を持つ御家人でした。)。
一方の平氏は、田浦付近に集結します。
そして・・・
3月24日卯の刻(午前6時頃)、源平両軍が3町(300m)を隔て対峙し、最後の合戦が始まります。
合戦が開始された時刻は定かではありませんが、午の刻(正午頃)には平氏の敗北に終わったといいます。
敗戦を悟った平氏は、次々に海に身を投げます。
二位尼(平時子:平清盛の妻)は、三種の神器の一つ宝剣を持ち、按察局(あぜのつぼね)は、安徳帝を抱えて海へ飛び込みます。
続いて建礼門院(平清盛の娘徳子)が海へ飛び込みます。
(※建礼門院は、源五右馬允(げんごうまのじょう)によって助けられています。安徳帝を抱いて海へ身を投げた按察局も同様に助けられています。)。
平氏一門の教盛らも入水し、経盛は、一度上陸し出家してから入水したといいます。
しかし、総大将の宗盛とその子清宗は、伊勢三郎能盛によって捕虜とされました。
こうして平氏は壇ノ浦に滅亡します。
壇ノ浦の戦い (「安徳天皇縁起絵図」) |
4月11日、勝長寿院の立柱式に立ち会っていた頼朝のもとに届いた義経からの巻物(報告書)によると・・・
長門国赤間関の海上で、源氏八四十余艘、平氏五百余艘の兵船が戦ったといいます。
海に没した者は・・・
安徳帝
二位尼(平時子・清盛の妻)
平教盛(平忠盛の四男・清盛の異母弟)
平知盛(清盛の四男)
平経盛(平忠盛の三男・清盛の異母弟)
平資盛(平重盛の次男)
平有盛(平重盛の四男)
平行盛(平基盛(清盛の次男)の長男)
生け捕った者は・・・
平宗盛(平氏の総大将・清盛の三男)
平時忠(公家)
平清宗(宗盛の長男)
平信基(廷臣)
平時実(公卿)
藤原尹明(公家)
副将丸(平能宗・宗盛の次男)
など・・・
※三種の神器のうち、宝剣は、紛失したため探索中。
頼朝は、この巻物を手にとって鶴岡八幡宮の方に向かい、しばらく声も出さず座っていたといいます。
補陀洛寺 平宗盛が持っていたという「赤旗」が残されています。 |
捕虜となった平氏の総大将平宗盛は、鎌倉に送られた後、6月21日、近江国篠原宿で斬首されました。
(参考:源平合戦で捕らえられた宗盛と重衡~鎌倉:教恩寺・補陀洛寺~)
宗盛を鎌倉に護送したのは、源平合戦で活躍した義経でしたが・・・
頼朝に無断で任官するなど、以前より頼朝の怒りを買っていた義経は鎌倉に入ることはできませんでした。
腰越に留まっていた義経は、満福寺で謝罪の手紙を書き(「腰越状」)、大江広元を通じて頼朝に提出しますが許されることはなく、再び宗盛を護送して京に戻っています。
(参考:源義経の腰越状~頼朝と義経の対立:満福寺~)
満福寺 弁慶の筆跡と伝わる「腰越状」の下書きが残されています。 |
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