1180年(治承4年)10月20日、富士川の戦いで勝利した源頼朝は、27日には佐竹征伐のため常陸国へ出発します。
このとき、
「27日は頼朝の哀日(生年・干支などから忌み慎むべき凶日)」
であることから、多くの御家人が出発を反対したといいます。
これに対して頼朝は、
「4月27日に以仁王の令旨を受け取り、東国を掌握できた」
として佐竹征伐を敢行しました。
11月4日、常陸国府に到着した頼朝は、まず、佐竹義政の縁戚である上総広常に命じて、義政を誘き出して謀殺し、金砂城に籠もる佐竹秀義を攻めます。
しかし、金砂城は、山の頂に築かれた城で、頼朝軍は麓の渓谷を進みますが、城からの矢や石が軍兵に当たり、こちらからの射る矢は山頂にまでとどかず、苦戦を強いられました。
翌5日、土肥実平・土屋宗遠らは頼朝に使者をよこし、
「この城は人の力で破ることは難しい要塞で、その中に籠もる兵も一騎当千の強者」
であることを知らせてきました。
これを聞いた頼朝は軍議を開きます。
その席で、上総広常は、
「佐竹秀義の叔父義季は、行賞を約束すれば秀義を討つ策略に加わることでしょう」
と進言したといいます。そして頼朝はこの策を採用します。
広常が義季のところに赴き、頼朝に味方することを説くと義季はすぐになびき、義季の手引きによって城の背後に回った広常軍が雄叫びをあげます。
予期していなかった出来事に城内は混乱し、ついに金砂城は落ち、秀義は逃亡しました。
※逃亡した佐竹秀義は、のちに行われる奥州征伐に従軍が許され、先祖新羅三郎義光ゆかりの地に屋敷を構えています。
大寶寺は佐竹氏の屋敷跡に建立された寺です。
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岩瀬与一太郎という男
この戦いで捕らえられた者の中に岩瀬与一太郎という男がいます。
この男、頼朝に
「同族を滅ぼすなんてとんでもないこと。国の敵に向かう時は天下の勇士は力を合わせて向かうべき」
と抗議したといいます。
上総広常が
「早急に処刑すべき」
と進言しますが、頼朝はこの男を許し御家人に列したといいます。
岩瀬の鎮守五社稲荷神社は、岩瀬与一太郎の創建と伝えられています。
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この佐竹征伐の間の11月7日、頼朝の叔父志田義広と源行家が常陸国府に参向しています。
そして、頼朝は17日に鎌倉へ帰っています。
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