「征夷大将軍」の「征夷」とは、「東夷を征伐する」という意味です。
朝廷からみた東国や蝦夷の人々が「東夷」と呼ばれていたようです。
源頼朝は、この「征夷大将軍」の職を望んでいましたが、後白河法皇が生存している間は任ぜられることはありませんでした。
(参考:源頼朝の上洛・・・権大納言・右近衛大将)
1190年(建久元年)に上洛をした頼朝は、九条兼実に面会し、次のように述べたといいます。
「いまの世は法皇が思うがままに天下の政治をとり、
天皇とても皇太子と変わりないありさま。
目下のところはいたしかたないが、
さいわいにあなたもお若くてまだ先が長い。
私にも運があれば、
法皇御万歳の後には天下の政を正しくする日がやってくるでしょう」
そして、頼朝と兼実が待ち望んだときがきます。
1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御しました。
後白河法皇の死は政治に大きな変化をもたらします。
兼実が関白となり、朝廷の指導者となったのです。
そして、頼朝もその年の7月12日、望んでいた征夷大将軍に任ぜられました。
『吾妻鏡』には、7月20日に朝廷からの伝令が届き、7月26日には勅使が到着して鶴岡八幡宮で辞令交付が行われたことが記されています。
辞令を受け取ったのは、三浦義澄だったといいます。