別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月8日日曜日

大庭城址とその周辺の散策

藤沢市の大庭城址は、現在は「城址公園」として親しまれています。

大庭城は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵した際、平氏方に付いた大庭景親が拠点としていたといわれています。


大庭城址
大庭城は大庭景親の居城と伝えられ、
室町時代には扇谷上杉家が拠点とした城でした。
しかし、1512年(永正9年)、北条早雲によって攻略され、
1590年(天正18年)には、豊臣秀吉の小田原攻めによって廃城となりました。


大庭の地は、鎌倉権五郎景政が開拓した「大庭御厨」の一部です。

景政は、村岡(藤沢市)に拠点を置いた平良文の子孫にあたり、板東八平氏の一つに数えられている家系です(参考:村岡御霊神社(藤沢) 御霊神社(鎌倉坂ノ下))。



~大庭御厨~

「御厨」というのは「寄進系荘園」のことです(どうも現在は「寄進地型荘園」と呼ぶようですが・・・)。

鎌倉権五郎景政は、1104年(長治元年)、大庭郷を中心とする土地を開発し、1117年(永久5年)、その土地を伊勢神宮に寄進しました。

これは、税の免除などの保護を受けるための方策です。


~源義朝の乱入~

源頼朝の父義朝は、1144年(天養元年)、「大庭御厨」が鎌倉郡内だとして乱入し大規模な収奪を行いました。

当時の御厨の下司は大庭景宗(鎌倉権五郎景政の子孫?)が務めています。

(※景宗の子には、源頼朝に敵対した景親(弟)と、頼朝に従った景義(兄)がいます(参考:相模の武将「大庭氏」)。)


~保元の乱~

1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景親は兄景義とともに源義朝に付いて戦っています。

その戦の折、景義は、源為朝の矢を受けて足に重傷を負ったそうです(参考:六角ノ井(鎌倉))。


~源頼朝と大庭景親~

1159年(平治元年)に起こった平治の乱で源義朝が敗れると、大庭景親は平清盛に仕えます。

そして、1180年(治承元年)、源頼朝が挙兵すると景親は平氏方として頼朝に敵対します。

石橋山の合戦では頼朝を破りましたが、頼朝が鎌倉入りを果たすと捕らえられ処刑されました。

しかし、大庭御厨は、景親の兄景義が頼朝に従っていたため、大庭の家に残されています。
(参考:大庭景義の居城「懐島城址:茅ヶ崎」



=大庭城址周辺の散策=

成就院
南北朝期に山名時氏によって創建されたといいます。
大庭神社の別当寺でした。





大庭神社
大庭景親が祀られている神社です。

 大庭神社旧蹟
(熊野神社)


船地蔵
北条早雲(後北条)が大庭城を攻めた際の伝説が残るお地蔵さまです。

熊野神社・市杵島神社
大庭城址の東にある神社です。
この地には、「北条時頼時宗・宗政のために建てた聖福寺があった」
という伝説が残されています。


引地川
大庭の地を流れる引地川沿いは、
「引地川親水公園」として整備されています。

引地川親水公園にある藤棚。


1213年(建保元年)に起こった和田合戦では、大庭景兼(景義の子)は和田義盛に味方し滅亡しています。

そして、大庭御厨は、1247年(宝治元年)の宝治合戦後、北条氏の所領となったと考えられています。


大庭城址公園


大庭城址公園のフジ



大庭城址
https://www.yoritomo-japan.com/ooba-jyosi.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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