大庭城は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵した際、平氏方に付いた大庭景親が拠点としていたといわれています。
大庭城址 室町時代には扇谷上杉家が拠点とした城でした。 しかし、1512年(永正9年)、北条早雲によって攻略され、 1590年(天正18年)には、豊臣秀吉の小田原攻めによって廃城となりました。 |
大庭の地は、鎌倉権五郎景政が開拓した「大庭御厨」の一部です。
景政は、村岡(藤沢市)に拠点を置いた平良文の子孫にあたり、板東八平氏の一つに数えられている家系です(参考:村岡御霊神社(藤沢) 御霊神社(鎌倉坂ノ下))。
~大庭御厨~
「御厨」というのは「寄進系荘園」のことです(どうも現在は「寄進地型荘園」と呼ぶようですが・・・)。
鎌倉権五郎景政は、1104年(長治元年)、大庭郷を中心とする土地を開発し、1117年(永久5年)、その土地を伊勢神宮に寄進しました。
これは、税の免除などの保護を受けるための方策です。
~源義朝の乱入~
源頼朝の父義朝は、1144年(天養元年)、「大庭御厨」が鎌倉郡内だとして乱入し大規模な収奪を行いました。当時の御厨の下司は大庭景宗(鎌倉権五郎景政の子孫?)が務めています。
(※景宗の子には、源頼朝に敵対した景親(弟)と、頼朝に従った景義(兄)がいます(参考:相模の武将「大庭氏」)。)
~保元の乱~
1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景親は兄景義とともに源義朝に付いて戦っています。その戦の折、景義は、源為朝の矢を受けて足に重傷を負ったそうです(参考:六角ノ井(鎌倉))。
~源頼朝と大庭景親~
1159年(平治元年)に起こった平治の乱で源義朝が敗れると、大庭景親は平清盛に仕えます。そして、1180年(治承元年)、源頼朝が挙兵すると景親は平氏方として頼朝に敵対します。
石橋山の合戦では頼朝を破りましたが、頼朝が鎌倉入りを果たすと捕らえられ処刑されました。
しかし、大庭御厨は、景親の兄景義が頼朝に従っていたため、大庭の家に残されています。
(参考:大庭景義の居城「懐島城址:茅ヶ崎」)
=大庭城址周辺の散策=
成就院 南北朝期に山名時氏によって創建されたといいます。 大庭神社の別当寺でした。 |
大庭神社 |
大庭神社旧蹟
(熊野神社)
船地蔵 |
熊野神社・市杵島神社 という伝説が残されています。 |
引地川 大庭の地を流れる引地川沿いは、 「引地川親水公園」として整備されています。 |
引地川親水公園にある藤棚。 |
1213年(建保元年)に起こった和田合戦では、大庭景兼(景義の子)は和田義盛に味方し滅亡しています。
そして、大庭御厨は、1247年(宝治元年)の宝治合戦後、北条氏の所領となったと考えられています。
大庭城址公園
大庭城址公園のフジ
大庭城址
https://www.yoritomo-japan.com/ooba-jyosi.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html