六浦道(金沢街道)から見える茅葺きの仁王門の先には、鎌倉最古の寺といわれる杉本寺の観音堂があります。
杉本寺は、731年(天平3年)、諸国を巡っていた僧行基が、自ら彫った十一面観音をこの地に祀ったのが寺のはじまりと伝えられています。
734年(天平6年)、光明皇后によって堂が建立されました。
杉本寺
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杉本城は、六浦道を臨む要害として設置されました。
築城者は三浦義明の長男杉本義宗。三浦氏は、平良文を祖とする板東八平氏の一つで三浦半島に拠点を置いていました。
義宗は杉本城を拠点としたことから「杉本」を名乗っています。
(※三浦氏を継いだのは次男の義澄。)
源頼朝から「侍所別当」に任じられた和田義盛は義宗の長男です。
義盛は、父義宗が亡くなると三浦半島の和田の里(三浦市初音町)を拠点としたため、「和田氏」を名乗っています。
身代地蔵
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杉本寺の観音堂の横には六地蔵とともに一体の地蔵尊が置かれています。
杉本義宗に放たれた矢がこの地蔵尊に当たり、傷跡から血がにじみ出ていたという伝説を持つ地蔵尊です。
鎌倉市のホームページでは、三浦氏の内部争いの際の出来事と記されています。
(参考:鎌倉二十四地蔵)
杉本城の落城
~足利尊氏の裏切り~
~足利尊氏の裏切り~
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇による親政が開始されます(建武の新政)。
「建武の新政」を補佐していた北畠顕家(北畠親房の子)は、1335年(建武2年)、鎮守府将軍として奥州に赴任します。
そんな折、鎌倉にいた足利尊氏が「建武の新政」に反旗を翻します。
顕家はそのまま、上洛を目指す尊氏を追ってこれを破り、九州に追いやりました。
しかし、尊氏は1336年(建武3年)、持明院統の光厳天皇を奉じて入京、後醍醐天皇(大覚寺統)との講和が結ばれ、「建武式目」を定め室町幕府が開かれます。
その後、後醍醐天皇は、吉野に逃れ、光厳天皇の北朝に対し南朝を開いています。
※当時の朝廷は、持明院統と大覚寺統が交替で皇位を継承していました(参考:文保の和談)。
~そして・・・北畠顕家の鎌倉攻め~
奥州に戻っていた北畠顕家は、1337年(建武4年・延元2年)、後醍醐天皇の命により京を尊氏から奪還すべく再び西上します(参考:北畠顕家の鎌倉攻め)。
12月23日、顕家は杉本城を守る斯波家長を破り鎌倉を攻略しています。
※北畠顕家は、朝夷奈切通を越えて鎌倉に攻め入ったと伝えられています。
顕家は、杉本城を落とした後、各地を転戦し、和泉石津で幕府軍の高師直に討たれました。21歳という若さでした。
顕家の旗印は「風林火山」であったことが知られています。
父の北畠親房は、その後も南朝にあって、のちの『神皇正統記』を書いています。
「身代地蔵」の横には多数の五輪塔があります。
杉本城では、北畠顕家の鎌倉攻めによって、斯波家長以下300名が自刃したと伝えられています。
この五輪塔群は、その時の戦死者を供養するために建てられたともいわれています。