現在残されている最古の仏像は、1176年(安元2年)に完成させた奈良円成寺の大日如来像。
この像は父康慶とともに造り上げたものといわれています。
1180年(治承4年)、以仁王と源頼政が平氏打倒の挙兵をします。
全国の源氏には以仁王の令旨が届けられました。
それによって、源頼朝をはじめとする源氏が立ち上がり治承・寿永の乱が幕を開けます。
この一連の事件と関連して、この年の暮、平重衡による南都焼討が行われます。
奈良仏師が拠点を置いていた興福寺や総国分寺として天下随一の規模を誇っていた東大寺が焼き払われています。
翌年から奈良仏師は興福寺の復興を手掛けることになります。
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~勝長寿院・永福寺の造仏・・・成朝~
1185年(文治元年)、源頼朝は奈良仏師成朝を招いて、勝長寿院の阿弥陀如来像や永福寺の丈六阿弥陀如来像を造らせています。
成朝は、奈良仏師の本家慶朝の子で運慶の従兄弟になります。
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~願成就院の造仏・・・運慶~
一方の運慶も1186年(文治2年)、北条時政に請われて伊豆韮山に下り、建設中の願成就院の造仏に携わっています。
伊豆韮山にある願成就院には、阿弥陀如来像、不動三尊像、毘沙門天像が安置されています。
毘沙門天像、不動三尊像の胎内からは、文治2年5月3日に北条時政の発願した仏像を運慶が造り始めたことが記された銘札が発見されています。
阿弥陀如来像も男性的で量感のある体躯からして運慶作と考えられています。
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~浄楽寺の造仏・・・運慶~
願成就院の造仏から3年後の1189年(文治5年)、和田義盛に請われた運慶は、浄楽寺の造仏に携わります。
横須賀の浄楽寺は、和田義盛の創建と伝えられ、1206年(建永元年)、浄楽寺が大風で倒れた際、勝長寿院の一部を移したとも伝えられています。
阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像は、毘沙門天像の胎内から発見された銘札から、1189年(文治5年)に運慶が、和田義盛とその夫人小野氏のために造立したことが判明しています。
※運慶の真作と判明するまで、阿弥陀三尊像は、勝長寿院から移されたものと伝えられていたそうです。つまり成朝作と伝わっていたことになります。
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~称名寺の造仏・・・運慶~
晩年の運慶は、源実朝、北条義時からの依頼で鎌倉の造仏に従事しています。
横浜市金沢区の称名寺には、源実朝の養育係とされる大弐局(だいにのつぼね)の発願で、運慶が造立したという大威徳明王が現存しています。
大弐局は、大威徳明王とともに、大日如来、愛染明王の造立を運慶に依頼したと伝えられています。
称名寺光明院の大威徳明王像の胎内からは梵字経巻が発見され、1216年(建保4年)、大弐局の発願で運慶が造立したことが記されています。
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『吾妻鏡』では、源実朝の持仏堂の「釈迦如来像」、大倉薬師堂(現覚園寺)の「薬師如来像」、勝長寿院の「五大尊像」が運慶によるものだったと伝えています。
また、六浦の瀬戸神社に伝わる舞楽面は源実朝愛用の面とされ、運慶の作ではないかと考えられています。
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~鎌倉で運慶作と伝えられている仏像~
光触寺 阿弥陀如来像
~「頬焼阿弥陀縁起」(国重文)に描かれた仏像~
杉本寺 十一面観音像・地蔵菩薩像・仁王像
~源頼朝寄進と伝わる十一面観音像~
教恩寺 阿弥陀三尊像
~源頼朝が平重衡に与えたという仏像~
延命寺 阿弥陀如来像・地蔵菩薩像
~圓應寺の閻魔大王を造ったあまりの木で造られたという阿弥陀如来と、北条時頼夫人の身代わりとなったという「裸地蔵」~
補陀洛寺 日光・月光菩薩像
~源頼朝創建の寺~
来迎寺(材木座)阿弥陀三尊像
~三浦義明の守り本尊~
英勝寺 阿弥陀三尊像
~徳川家光寄進の像~
圓應寺 閻魔大王像
~娑婆に戻された運慶が造ったといわれる「笑い閻魔」~
しかし、いずれも運慶の真作と確認されてはいません。
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運慶は、平重衡によって焼かれた興福寺や東大寺の復興に貢献しました。
特に、快慶らとともに造立した東大寺南大門の金剛力士像は有名です(1203年(建仁3年))。
運慶は、都の平氏が没落し東国の源氏が台頭すると東国の武将に近づきます。
そして、これまでの貴族的な仏像から力強い仏像が造り出されていきます。
鎌倉にも運慶をはじめとする多くの慶派の仏師が入り活躍しました。
さらに鎌倉に宋文化が流入すると慶派の仏師たちによって仏具などが作られるようになります。
建長寺の須弥壇や円覚寺の前机などが知られていますが、こういった技術は、現在も伝統工芸品「鎌倉彫」に生かされています(参考:鎌倉彫再興碑)。
運慶は、1223年(貞応2年)に亡くなったと伝えられています。
鎌倉様式ともいわれる運慶の仏像は、重量感と力強さがあって写実性に富んでいるといわれています。
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鎌倉との繋がりを求めて。