別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年2月17日金曜日

鉄観音像の伝説と鎌倉十井:鉄ノ井

いつ頃なのか判りませんが、北条政子は、扇ヶ谷に鉄観音像(鉄造の聖観音像)を本尊とする新清水寺を創建したといいます。

新清水寺は鎌倉時代に焼失してしまいましたが、鉄観音像の頭部は、現在も東京人形町の大観音寺に伝えられています。

(※鉄観音像は、鋳鉄製で頭部だけでも1.7メートルもある巨大な仏像でした。)


『吾妻鏡』によれば、

1258年(正嘉2年)正月17日午前2時頃、安達泰盛甘縄邸から出火。

南風にあおられた火は、薬師堂の裏山を越えて壽福寺に至り、総門、仏殿、庫裡、方丈などの堂宇を焼き尽くしました。

さらに新清水寺窟堂、その辺りの民家、鶴岡八幡宮の宝蔵、別当坊などが焼き尽くされましたといいます。


この火災によって、新清水寺の鉄観音像も鉄の塊になってしまったかと思われましたが、不思議な事が起こります。

新清水寺が焼け落ちたとき、突如強い光が発せられ、巽の方角に飛び去っていきました。

翌日、村人が火災の跡片づけをすると、焼けた観音様の胴体はありましたが、首がみつからなかったといいます。

人々はあの光が観音様だったと噂したそうです。

数年が経ち、雪ノ下の井戸が、目を洗えば治り、常用すれば風邪をひかず、胃腸病や傷も治るという評判になります。

そのうち、観音様のお首が井戸の中にあるに違いないという話になり、井戸替えのときに井の底を掘ると観音様のお首が現れました。

地上に引き上げられたお首は、新しく建てられた「鉄観音堂」に安置され、井戸は「鉄ノ井」と呼ばれるようになり、参詣者が絶えなかったそうです。


 鉄ノ井

観光客で賑わう小町通りのはずれにある井戸です。

鎌倉十井の一つに数えられています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

江戸時代には、観光絵図にも載せられ大いに賑わった「鉄ノ井」と「鉄観音堂」でしたが・・・

明治にはいると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、鎌倉でも多くの仏像が破壊されたり捨てられたりしたそうです。

鉄観音像も例外ではありませんでした。

拝する人も少なくなり、鉄観音堂も倒れかけていたといいます。


そんな1873年(明治6年)3月、二人の骨董商が鉄観音像を見て「これは儲かる」と考え、坂ノ下海岸から小舟に乗せて東京へ運ぶことにしました。

二人は、東京へ着くまでの間、津々浦々の港に寄って鉄観音像の開帳を行い、旅費を稼いだそうです。

しかし・・・観音崎をまわって東京湾を目指すと、大雨が降り出し、突風に襲われてしまいます。

鉄観音像を載せた小舟は笹舟のように回転していたそうです。

小舟には海水が入り込み、桶で掻い出しますが間に合いません。

二人は、このままでは沈没してしまうので、鉄観音像を捨てようと考えますが、二人で動かせるほど軽い仏像ではありません。

終いには、二人は、仲間割れして喧嘩をはじめてしまいますが、船頭は鉄観音像を祈っていたといいます。

二人も船頭にならって鉄観音像に祈ると、小舟は沈没を免れ、深川の御船蔵前に漂着したそうです。

その後、鉄観音像は、1876年(明治9年)に建てられた仮堂に安置され、現在東京人形町にある大観音寺のはじまりとなったと伝えられています。


 大観音寺


1891年(明治24年)に刊行された『東京人形町正観音略縁起』には、

「あの時の大時化は仏罰である。骨董商の二人は海中に飛ばされ鱶(ふか:サメのこと)の餌食となった。観音像だけが深川河岸に漂着した」

と書かれているようです。

大時化に襲われて以後、行方をくらましていた二人でしたが、この記事には困り果て、多額の寄附をし、すっかり悔い改めたということです。


 鉄観音像

後ろにある大きな頭が鉄観音像です。

鎌倉時代に製作された鉄仏の中でも秀作とされ、昭和47年に東京都の指定有形文化財に指定されています。

毎月17日に開帳されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 鎌倉手帳


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