北条泰時は、1221年(承久3年)の承久の乱後、六波羅探題北方として京都に駐留していましたが、1224年(元仁元年)、父義時が急死したため、鎌倉へ戻り執権に就任しました。
(※このとき、義時の後妻伊賀氏は、兄光宗とはかり、三浦義村をだきこんで、実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にしようと企てていましたが、失敗しています(伊賀氏の変)。)
~大江広元・北条政子の死と幕政改革~
翌1225年(嘉禄元年)6月10日、源頼朝の時代から幕府を支えてきた大江広元が亡くなります。さらにその1ヶ月後の7月11日、尼将軍北条政子(泰時の大伯母)がこの世を去りました。
この2人の死は泰時にとって大きな打撃だったと思われます。
そんな中、泰時は、幕政改革に乗り出します。
まず連署を設置し、叔父の北条時房を迎えました(複数執権制)。
次に、幕府の最高議決機関としての評定衆を設置し、三浦義村ら11名が任命されています(幕府政治の合議制)。
そして、執権・連署と評定衆が中心となって、日本で最初となる武家の法典「御成敗式目」(貞永式目)の制定へと準備が進められていきます。
~御成敗式目の制定・発布~
『吾妻鏡』によると、泰時は、執権就任間もない頃から、毎朝、古代の律令に目を通すことを日課としていたといいます。
泰時の時代には、承久の乱の勝利によって幕府の支配領域が拡大した一方で、公家と武士あるいは御家人同士の所領争いも増えていました。
これまでは、源頼朝以来の先例によって所領紛争を裁決していましたが、それも限界に達し、裁決の判断基準が必要となっていました。
こうした状況の中で、1232年(貞永元年)5月14日、「御成敗式目」の制定に着手することになります。
泰時は、式目の起草を太田康連に命じ、法橋円全に執筆させています。
それから3ヶ月後の8月10日、鎌倉幕府の基本法となる「御成敗式目」が公布されました。
(※様々な説があるでしょうが、『吾妻鏡』によれば、7月10日、政道について連署・評定衆11名に起請文を提出させていますので、式目が制定されたのはこの日だという考え方もあります。)
御成敗式目(鶴岡本)
~御成敗式目制定の目的~
泰時が六波羅探題の北条重時に送った書状に式目制定の目的が記されています。
それは・・・
「裁判が当事者の地位・高下・勢力の強弱によって左右されることがないよう、公平な裁判を行うための基準となる法である。
無学の地方の地頭御家人らにも周知徹底し、法の存在を知らないで思わざる罪に陥れられることのないようにすることを目的とする」
というものです。
そして、
「この法は、武家社会の常識的な規範である道理に基づいて定められているものあって、公家社会の律令、格式を変更するものではない」
としています。
~御成敗式目の内容~
『吾妻鏡』の8月10日条には・・・
「泰時が命じていた御成敗式目の作成が終わり、この日以後の裁許は、この法に基づいて行われるよう定められた」
ことが記されています。
そして、
大宝律令は「海内の亀鏡」、式目は「関東の鴻宝」とも記されています。
こうして公布された「御成敗式目」は、全51箇条からなっています。
まず、前書には、式目の効力と、式目公布以前の事象については遡及しないことが記され、
1条・2条・・・神社・仏寺の修理と祭祀、仏事の励行
3条・4条・・・守護の職務と警察権限
5条・・・地頭の年貢滞納の処分
6条・・・幕府と朝廷・本所の管轄
7条・8条・・・裁判の二大原則(「不易の法」と「知行年紀法」)
「不易の法」とは、
源氏三代と北条政子の時代に与えられた所領は、訴訟を提起しても改められないという規定。
「知行年紀法」とは、
20年を超えて継続して知行してきた所領は、理由を問わず知行権を保証するという規定。
9条~17条・・・刑法
18条~27条・・・民事訴訟法
28条~31条・・・裁判制度と訴訟手続
32条~34条・・・刑法
35条~51条・・・各種規定
が規定されています。
御成敗式目の巻頭文
※時代が経過するに従って、式目の不備や補充がなされています。「式目追加」などと呼ばれていますが、追加された法は750箇条にも及ぶといわれています。
※「御成敗式目」は、貞永元年に制定・発布されたことから「貞永式目」とも呼ばれます。
※「御成敗式目」は、室町時代の「建武式目」をはじめ、戦国時代の「分国法」にも影響を与えました。
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