別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月3日日曜日

源義経の母常盤御前

新ページ:常盤御前~源義経の母~

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

常盤御前は、奥州平泉で悲劇の最期を遂げた源義経(牛若)の母です。

北条時政の娘保子(阿波局)と結婚した全成(今若)も、墨俣川の合戦で討死した義円(乙若)も常盤御前の子です。


ドラマ等で知られた話では・・・

平治の乱で夫義朝が敗れると、常盤は、三人の子を救うため、敵の平清盛に身をまかせたといいます。

また、清盛との間にも娘をもうけたともいわれています。


しかし、どうもこれらの話は作られたものだという説が多いようです。

なぜなら、「義朝の嫡男で、常盤の子ではない頼朝が助かっているのに・・・」ということのようです。


いずれにしても・・・

平治の乱後、常盤は藤原(一条)長成という貴族と結婚します。

これは、のちに頼朝に対面した義経が「継父長成に養われ・・・」と言っているようなので確かなことなのかと考えられています。

そして、常盤と長成との間には、数人の子がもうけられたといいます。


九条兼実の日記『玉葉』には、その中の一人能成(良成)は、1185年(文治元年)、頼朝と対立し、都落ちした義経と行動を共にしたことが記されているようです。

翌年、常盤は鎌倉方に捕らわれました。

『吾妻鏡』には、「捕らえた常盤を鎌倉に護送するかどうか」が記されているようですが、どうも鎌倉に送られてきたという事実はないようです。

ただ、鎌倉には「常盤」という地名があります。

鎌倉の「常盤」には、「常盤御前の墓」と呼ばれるやぐらや、「常盤御前の硯水」と呼ばれる井戸もあったそうです。

伝説にすぎないものなのかもしれませんが・・・。


『吾妻鏡』の記述を最後に常盤の消息は不明となってしまうようですが、

義経と行動を共にした能成は、のちに政界に復帰して従三位にまで昇り、75歳まで生きたといわれています。

常盤も一緒に暮らしていたのでしょうか・・・?



★常盤御前と3人の子を救った清水観音

★常盤と打越の散策



鎌倉手帳



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