鎌倉の
妙本寺は、比企一族と二代将軍
源頼家の嫡子一幡が滅亡した所です。
偉大なる鎌倉武家政権の創始者
源頼朝が亡くなると、その家督は長男の
頼家に引き継がれますが、
頼朝の時代のような将軍独裁というわけにはいかず・・・。
御家人による権力争いが始まります。
比企一族の当主比企能員は、流人時代の
頼朝を支援していた比企尼の養子です(参考:
蛭ヶ小島)。
比企尼との繋がりから、二代将軍
頼家の乳母夫を務め、娘若狭局が
頼家の子一幡を産んだことで、幕府内での権勢を強めていました。
しかし、
頼家の弟
実朝を擁して権力を手に入れたい
北条時政は、1203年(建仁3年)9月2日、比企能員を自邸に誘き出して殺害し、
北条義時らによって比企邸が攻められ、比企一族は滅亡しました(
比企の乱)。
四基の五輪塔の両脇に建てられている石塔には、それぞれ「本行院日学聖人」「輪成院日教聖人」と刻まれています。
「本行院日学聖人」とは、比企能員の末子能本のことで、
妙本寺の開基と伝えられています。
「輪成院日教聖人」とは、祖師堂を再建した四十七代目の住職です。
比企の乱では、一幡の
小御所も焼かれ、その焼け跡から一幡の袖が発見されたといいます。ここには、発見された一幡の袖が葬られています。
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妙本寺の山号は「長興山」です。
「長興」は比企能員の法号、そして、寺号の「妙本」は能員の妻の法号ということです。
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2022年の大河は北条義時