別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年6月26日日曜日

比企一族の供養塔と一幡の袖塚~鎌倉妙本寺~


鎌倉の妙本寺は、比企一族と二代将軍源頼家の嫡子一幡が滅亡した所です。

偉大なる鎌倉武家政権の創始者源頼朝が亡くなると、その家督は長男の頼家に引き継がれますが、頼朝の時代のような将軍独裁というわけにはいかず・・・。

御家人による権力争いが始まります。


 比企一族の五輪塔

比企一族の当主比企能員は、流人時代の頼朝を支援していた比企尼の養子です(参考:蛭ヶ小島)。

比企尼との繋がりから、二代将軍頼家の乳母夫を務め、娘若狭局が頼家の子一幡を産んだことで、幕府内での権勢を強めていました。

しかし、頼家の弟実朝を擁して権力を手に入れたい北条時政は、1203年(建仁3年)9月2日、比企能員を自邸に誘き出して殺害し、北条義時らによって比企邸が攻められ、比企一族は滅亡しました(比企の乱)。


 比企一族の墓

四基の五輪塔の両脇に建てられている石塔には、それぞれ「本行院日学聖人」「輪成院日教聖人」と刻まれています。

「本行院日学聖人」とは、比企能員の末子能本のことで、妙本寺の開基と伝えられています。

「輪成院日教聖人」とは、祖師堂を再建した四十七代目の住職です。


 一幡の袖塚

比企の乱では、一幡の小御所も焼かれ、その焼け跡から一幡の袖が発見されたといいます。ここには、発見された一幡の袖が葬られています。


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妙本寺の山号は「長興山」です。

「長興」は比企能員の法号、そして、寺号の「妙本」は能員の妻の法号ということです。


 妙本寺祖師堂

 妙本寺本堂


 妙本寺大円坊



 比企氏の乱

 妙本寺







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初代執権北条時政

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 二代執権北条義時

鎌倉殿の13人~宿老13人の合議制~


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