別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月3日火曜日

新羅三郎義光と佐竹氏~大寶寺・八雲神社~

新羅三郎義光の墓(大寶寺)

新羅三郎義光(源義光)は、源頼義の三男で、兄には八幡太郎義家がいます。


佐竹屋敷跡碑

大町の大寶寺は、佐竹氏の屋敷があった場所に建てられています。

佐竹氏の祖新羅三郎義光は、後三年の役を兄八幡太郎義家とともに鎮め、甲斐守として鎌倉のこの地に館を構えたといいます。

以後、佐竹氏の居館となったということです。

新羅三郎義光は、佐竹氏の祖でもありますが、武田氏や小笠原氏の祖でもあります。

鶴岡八幡宮で奉納される流鏑馬では、小笠原流・武田流が武家の心を今に伝えています。

(写真は武田流:東日本大震災復興支援「流鏑馬」




1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をし鎌倉に入った源頼朝は、その年のうちに、富士川の合戦で平氏軍を破り、続いて佐竹征伐を行います。

佐竹氏は、清和源氏の一流にあるにもかかわらず、平氏に与したことにより、領していた常陸国を没収されました。

のちに行われた奥州征伐の折、逃亡していた佐竹秀義が頼朝に従って許されています(1189年(文治5年))。


佐竹氏の家紋

奥州征伐の際、佐竹義秀は、頼朝と同じ白旗を使用していたといいます。

しかし、頼朝に「紛らわしいから旗に扇を付けよ」と命ぜられ、以後、それが佐竹氏の家紋として用いられてきました。

扇に月が描かれたもので「扇に月丸」と呼ばれています。
(参考:鎌倉の家紋


大寶寺

佐竹義盛が建てた多福寺を前身としています。

のちに廃寺となった多福寺を日出が再興し大寶寺と改めました(1444年(文安元年))。


八雲神社(大町)

大町の八雲神社は、新羅三郎義光が、京都祗園社の祭神を勧請したのがはじまりと伝えられています。

応永年間(1394~1428年)には、佐竹屋敷にあった祠が合祀され「佐竹天王」と称されていたそうです。


八雲神社境内の新羅三郎手玉石

新羅三郎義光は、永保年間(1081~1084年)、兄義家が鎮圧に向かった「後三年の役」の助勢に赴く途中、鎌倉に立ち寄ったといいます。

その折、疫病に苦しむ人々をみて、京都祗園八坂社を勧請したと伝えられています。


新羅三郎義光像(大寶寺)

佐竹氏は、室町時代、戦国時代の困難な時期を切り抜け、豊臣政権下では、徳川、上杉、前田、毛利、島津とともに「天下六大名」と称されています。

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祗園八坂神社

南楼門

舞殿

本殿

忠盛燈籠


西楼門

祗園八坂神社



大寶寺
https://www.yoritomo-japan.com/page126daihoji.htm
八雲神社(大町)
https://www.yoritomo-japan.com/page043yakumo.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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