別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月26日火曜日

どこも苦地蔵と阿仏尼の墓~智岸寺ヶ谷:鎌倉~


現在の英勝寺が建てられている付近が智岸寺ヶ谷です。

『新編相模国風土記稿』には、智岸寺という尼寺があって、東慶寺の旭山尼が隠居所として使用したことが記されているようです。

旭山尼は西御門にあった尼寺太平寺の最後の住職青岳尼の妹で、青岳尼が安房に持ち去ったとされる聖観音菩薩像を旭山尼が鎌倉に戻したと伝えられています。

その像は東慶寺の松ヶ岡宝蔵に保管されています(土紋が施された仏像です。)。

『新編鎌倉志』には、「智岸寺ヶ谷は英勝寺の境内なり」とあるようです。

英勝寺は智岸寺の跡地に建てられました。


~どこも苦地蔵~

瑞泉寺の地蔵堂
瑞泉寺の地蔵堂に安置されている「どこも苦地蔵」は、
智岸ヶ谷の地蔵堂に安置されていたものといわれています。
貞享の頃(1684~87年頃)に鶴岡八幡宮正覚院に移され、
のちに瑞泉寺に移されたといいます。
その頃すでに「どこも苦地蔵」と呼ばれていたようです。







「どこも苦地蔵」には、次のような伝説が残されています。

地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕にお地蔵さまが現れて、

「どこも、どこも」

と告げたそうです。

堂主は

「苦しいのはどこにいっても同じだ」

と悟ったのだといいます。



~阿仏尼の墓~

阿仏尼の墓
英勝寺近くの崖に「やぐら」があります。
その中には阿仏尼のものとされる供養塔が建てられています。
(参考:伝阿仏尼墓
阿仏尼は、息子の正当性を幕府に訴えるために鎌倉へやってきました。
月影ヶ谷に屋敷があったと伝えられています(参考:阿仏尼邸跡)。


阿仏尼は、1277年(建治3年)、訴訟のため鎌倉へ向かいます。
その時の紀行文が『十六夜日記』です。

阿仏尼は、訴訟の結果が出る前に亡くなったようですが、亡くなったのが鎌倉なのか、京に戻ってからなのかは説が分かれています。

阿仏尼の墓の前にはJR横須賀線が通っていますが、その反対側の浄光明寺の裏山には阿仏尼の息子冷泉為相の墓があります。

為相は、母を慕って鎌倉に下向し、浄光明寺の北西の藤ヶ谷に住んでいたといいます。

もしかすると阿仏尼は尼寺の智岸寺によく通っていたのかもしれません。
近くには息子為相も住んでいたようですし・・・。

そうだとするとここに阿仏尼の墓があってもおかしくないことです。



智岸寺稲荷

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瑞泉寺の藤棚



鎌倉手帳


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